第26話 寄る辺なき命を負うた者よ

 誰も私を見ていないことを願いながら、金の籠に手を伸ばした。頑固に居座っている不快な味と匂いを何とかしたい一心で。ミンラのように上手ではないけど、なんとか細く千切って口に入れた。


 甘い、すごく甘い。味わうほど強くなる甘みが、口の中に残っていたスパイスの風味や薬臭さと不思議になじむ。

 なるほど、順番が逆だったのかもしれない。そういえば、ミンラもボスも実を食べてからお茶を飲んでいた。


 種を外して残りを頬張ほおばる。濃厚な甘みが口いっぱいに広がってから、お茶を飲む。なんともいえない、体がしゃきっとするような味わい。ミンラが大好物だというのも、わからなくはない。


 種を日の光にかざすと、ビロードのような綿毛が白銀の輪になって輝いた。

 ミンラと目があった。お行儀が悪かっただろうか?

 目を伏せて、そうっと銀の籠に種を入れた。


 ミンラはママに合図をすると、私に早口で語りかけてきた。ダメだ、さっぱりわからない。ミンラが言葉を切ると、ママが日本語にしてくれた。うわあ、ママが私に通訳してくれるなんて。


「これは、私の故郷に古くから伝わる英雄の物語。

 かの偉大な満月将軍が、その偉大な歩みを始めたばかりのころ。


 満月将軍の一行は、わずかな手勢で強大な敵に奇襲をかけるため、街道から外れた道なき道を急いでいた。行く手に小さな人影が現れた。近づいてみると、粗末な身なりの腰の曲がった老婆だった。枯れ枝のような腕に、生まれたばかりの子を抱いている。赤子を満月将軍に差しだし、彼女は言った。


『私の娘が生んだ、あなたの子だ。腹の中では静かだったが、腹から出たら少しの間も黙っていない。もう隠してはおけない。このままでは娘も赤ん坊も殺される。だから、この子を引きとってください』


 この頼みを満月将軍は断った。彼もまた窮地に立たされていたから。彼の才を妬む者に命じられた無謀な戦で、明日の命も知れぬ身だった。

 しかし、断る理由を聞いても老婆はあきらめなかった。


『今日、あなたは死なない。明日も死ぬとは限らない。でも、二人は今日のうちに殺される。娘は一族をはずかしめた者として、赤ん坊は存在を許されぬ者として。あなたは、もうわかっているはず。今、この子を腕に抱くべき者が、自分自身であることを』


 老婆の言うとおり、満月将軍にはわかっていた。だから赤ん坊を受け取った」


 せっかくママが通訳してくれているのに、お話の意味がわからない。ミンラはどうして、こんな話をするのだろう?


 ママと目をあわせていても、ヒントの欠片さえ見つけられない。ママの瞳の奥はからっぽで、いつもより遠い存在のように思える。以前、通訳することについてママが言っていたとおりだ。


「他人の言葉を訳すとき、自分の感情は殺しておくの。会話の主体は私じゃないから」


 なにもかも知っているはずのママの言葉で語ってほしいのに。

 でも、感情を殺したママの口から出てくるのはミンラの言葉だ。


「赤子の名前をつけるよう頼まれて、満月将軍はその子をアイメルと名付けた。老婆はアイメルに与えるようにと言って、草で編んだ大籠いっぱいの実を指し示した。


 誰もが不思議に思った。こんな小さな老婆がたった一人で、こんなに人里離れたところまで、どうやって赤ん坊と大籠を運んできたのだろう。敵にも味方にも秘密にしていた道筋を、なぜ知っていて待ち伏せできたのだろう、と。


『今日、なき命をうた者よ。明日、その身は栄光に輝き、英雄と称えられるであろう』


 そう言い残し、老婆の姿は吹き消すように見えなくなった。彼女の不思議な言葉のとおり、満月将軍は翌日の戦で奇跡的な大勝利をおさめた。アイメルは賢く育ち、後に宰相となり、長く良く国を治めた」


 ミンラの赤い爪がゴツゴツした黒い実をつまみ、光にかざしながらクルクルと動かした。薄く尖って皺になった皮が、紫水晶のような光を放っている。

 彼女は私のほうへ体を傾け、ゆっくりした英語で喋った。


「これが、その実。アイメルの実、というの。この実を食べて立派に育ったアイメルのようになってほしくて、最初に生まれた子の名をアイメルにするのはよくあること。私の兄もアイメルという名前で、とても賢い人だった」


 間違いなく過去形だった。以前は賢かった兄が、今は愚かになってしまったという意味ではないだろう。タカシがしてた噂話が思いだされた。


 わからないことが多すぎる。もう一つ、アイメルの実を食べてみた。お茶を含んで、目の覚めるような味と香りの変化を堪能する。慣れてきたせいか、とても美味しく感じる。でも賢くなった気はしない、残念だけど。

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