第40話 自転車
彼女は両手いっぱいにミントの葉を収穫すると、足元を見まわした。
「あら、私の籠が無い」
「たぶん、私たちが最初に会った場所。私が取ってきます」
彼女の返事を待たずに、私は林に駆けこんだ。
来るときは足元と頭上しか見なかったので気づかなかったけど、階段を挟んだ畑の反対側は、階段以上に急な斜面になって落ちこんでいる。その先には真新しいコンクリートの高い塀が続いていた。
塀の下は、きっと崖だ。幾重にも重なった緑のレースの奥に、ビルの屋上と看板の裏側が透けて見えるから。
緑のトンネルは曲がりくねっていて、すぐに塀は見えなくなった。
その次に塀に気づいたのは、外から車が通り過ぎる音が聞こえたからだった。舗装道路の端が、かろうじて
縁側には湯呑と、オレンジジュースが入ったガラスのコップがある。人の姿はない。今しがたまで縁側に座っていた二人が、ちょっと先に咲いている花を見にいった、という風情。
どんな人たちなのか確かめたくて、ちょっと待ってみたけど戻ってこない。諦めて先を急いだ。
竹庭に見とれないよう早足で通り過ぎ、ガラスの破片を埋め込んだ塀の上にツナの姿を探したけど見つからなかった。
石段を駆け下り、砂利道をザクザク鳴らしながら走ると、思ったとおりの場所に籐の籠があった。
背後から誰かが近づいてくる音がしたので、あのミントティー好きな籠の持ち主かと振りかえった。
音の主はフィリップだった。いかにもスピードが出そうなスマートな自転車を押している。サドルの位置がハンドルより高い。もちろん、ママチャリのような前カゴはついてない。
「ハーイ、フィリップ」
「ハロー、リサ。散歩は楽しかった?」
フィリップは歩みをとめない。私の挨拶は、なれなれしかったかも。
でも、ここで黙ってしまったら、これまでの私と変わらない。勇気をだして、彼と並んで歩いた。
「ええ、私が楽しんだのは散歩じゃなくて山登りだったけど」
彼は短く笑った。よし。
「なるほど。じゃあ、あの見事な薔薇の庭を見た?」
「いいえ、私が見たのは竹庭と畑。これから上でミントティーを飲むの」
彼は、私が持っている籐の籠に視線を移した。
「ああ、ジャスミンと一緒なのか」
私はその名を知らなかったので、あいまいに頷いた。
毎日ミントティーを飲んでいるからミントさん、みたいに適当な呼び名をつけて自己満足するのはよくない。やっぱり、最初に名前を聞いておくべきだった。
彼女が言ってた「もっときれいな所」とは、きっと薔薇庭のことなのだろう。花のことは言わずに私を連れていき、驚かせるつもりだったのだ。
「彼女は、とても親切」
フィリップは頷いて、何か楽しいことを思いだしたように、下を向いて微笑んだ。会話が途切れる。
ゆっくり進む自転車の音が、速すぎるメトロノームのように追い立ててくる。
二人の歩調はバラバラで、私の心臓が暴れ始め、ますますテンポがめちゃくちゃになる。
何か言わなければ。もう何でもいいから。
「どこに行くの?」
「家に帰る」
「ここに住んでいないの?」
フィリップは顔をしかめて首を振った。
「どうして?」
「住みたくないから」
「どうして? こんなに素敵なところなのに」
「そうだね、すごく素敵なところだ。だけど上司と一緒に住むなんて、お断りだね。軍隊じゃあるまいし」
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