第41話 あの、ひとつ質問

 フィリップに尋ねたいことがあったはずなのに、さっきまで頭にあった質問が跡形もなく消えてしまっている。

 会話が途切れた。


「どうしたの?」

「母には、新しい仕事が必要なの。でも私は、引っ越したくない」

 考えなしに喋ってしまってから、理解が追いついた。

 ここがどんなに素適なところでも、今の生活を変えたくない。これまでどおり、ママと二人で暮らしたい。


「そのこと、お母さんは知ってるの?」

 彼に見つめられると、喉の奥からボールのような物がせり上がってきて、答えようとしていた言葉をふさいだ。


 昨日までなら『もちろん、ママは私の気持ちを知ってるよ』と、自信を持って言えたと思う。


 いつのまにか門の手前まで来ていた。私たちが何もしなくても、門が半分だけ開いた。

 フィリップは『まだついてくるの?』という目で私を見たけど、気づかないふりをして一緒に門の外へ出た。


 目の前の道は、怖いほど急な下り坂だ。

「すごい坂。自転車で、危なくない?」

「全然。この辺は坂が多いから好きなんだ」


 彼は自転車を少し傾けた。サドルを腰に預けてひざを上げると、さっと腕を伸ばしてズボンのすそにバンドのようなものを巻きつけた。

 一瞬の美しい動作だった。


 もう一方の裾にも同じことをすると期待したのに、彼は自転車を引いて明るい坂道の中央へと進み出た。


 強い日差しに髪が輝く。

 ハンドルを坂下に向け、最小限の動きでサドルにまたがる。


「あの、ひとつ質問」

 彼がこっちを向いた。言いだせずにいる私に「いいよ」と言ってくれた。


「ロブスターを食べてる時、なんで私に『海老だもん』って言ったの? 教えて。『海老だもん』って、どういう意味?」


 あせって早口になったせいで、彼には質問の意味がわからないようだった。唇が繰り返しの形に動いている。ふと動きが止まって口元がほころび、そのまま大きく広がって、きれいな犬歯がちらりと見えた。


もちろんオフコース」と彼は答えた。


 両足をペダルにのせと、そのままの姿勢でピタリと静止。次の瞬間、見えない大きな力に引かれ、飛ぶような速さで走り去ってしまった。


 わけがわからない。なんだよ「オフコース」って。

 私が知らないだけで「もちろん」以外の意味があるのだろうか?


 こんなことママには聞けないから、帰ったら自分で調べるしかない。ああもう面倒くさい。その前に大仕事があるっていうのに。


 砂利道を引き返すと、門が閉まる気配がした。振り返って探すと、思ったとおり、門の上にも監視カメラがついていた。


 ゆるゆると石段を登った。竹庭を横切っている時、上から大声が聞こえた。

 返事をしながら、急いで裏にまわると、声の主が階段の中ほどで手を振っている。


「川端さんから電話があった。あなたのお母さんが下で待ってる」

 階段を駆け上がり、籐の籠を手渡した。

 彼女の表情から面接の結果が読み取れないだろうか?

 私の意図を察した彼女は、「伝言はそれだけ」と付け足した。


 「ありがとう」

 ジャスミン、と付け加えるべきか迷って、やめた。


 ちゃんと本人から名前を教えてもらうべきだけど、心に余裕がなかった。

 もしママが合格すれば、また会う機会がある。その時、これから何と呼べばいいか聞けばいい。不合格なら、もう二度と彼女に会うことはないだろう。

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