第42話 背中が固すぎる

 別れの挨拶もそこそこに駆けだした。石段を降りると、ちょうど車庫の扉が上がりだしたところだった。その前にはママとタカシがいて、二人は抱きあってキスしていた。

 結果は聞くまでもない。


 タカシはママの腰を抱いておおいかぶさるような姿勢になった。無理やりな体勢は見苦しいし、ママは背中が固すぎる。

 二人は体を離すと、バカみたいに大笑いした。


 やっとママが私の存在に気づいて、両手を広げて駆け寄ってきた。

 きらきらした笑顔で「採用よ。これで助かったの、私たち」と言い、さっきまでタカシの首に回していた腕で私を抱きしめた。


 それからママは私の腕をつかみ、車のドアの前まで引っ張っていった。

「私が運転するから。ぐずぐず言わないで」

 いつの間にか後部座席に納まってしまった。ママが運転するとは思わなかったから抵抗できなかった。タカシの運転なら拒絶できたのに。


 助手席の窓の外から、タカシが声をかけてきた。

「オレが運転してやろうか?」

「マダムと約束したから。リサが心配しないよう、私が運転するって。顧客との約束が優先よ。ずっとそうしてきたし、それはこれからも変わらない」


 タカシは鼻で笑って、助手席に乗り込んだ。

「いい心がけだ。おまえはマダムと上手くやるだろうよ。まあ、それがわかってたから推薦したわけだけど」

「ありがとう。とっても感謝してます」

「採用されたのは、実力があるからだ」

 ママは満足そうに微笑み、エンジンをかけた。

 

 車にかれた砂利が夕立のように鳴きだし、ママは声を張り上げた。

「給料は文句なし。その上、ここにタダで住めるなんて。家賃だけでなく、敷金、礼金、更新料、共益費、火災保険料、それに光熱費まで無料だなんて夢みたい」


 そんなにいろいろな費用がかかっていたのかと、あらためて思い知らされた。それが全部、ママ一人の肩に重くのしかかっていたのだ。

 生活費の重圧から解放されれば、ママは毎日きらきらしていられるのかもしれない。


「そのかわり、休日や時間外だって容赦なくこき使われるからな」

「そんなの平気。今までだって、海外本社の時間にあわせてテレビ会議するからって、突然夜中に呼びだされたりしてたもの」


 そういうことだったのか。

 これまでも、夜中に目覚めてママの不在に気づいたことが度々たびたびあった。

 テーブルの上に『仕事に行ってきます。朝には帰ります』という書き置きが、あったり無かったり。ひとりぼっちの夜に、ママの不在を知らせる私あてのメッセージは、あっても心細さが増すだけだし、無ければ無いで恐ろしい。


 だからもう探すのはやめてしまった。暗いうちに目が覚めても、ママの姿や置手紙おきてがみを探しに起きだしたりしない。朝になっても一人だったことは一度もなかったから。目を閉じて、できれば眠って、ただ朝を待てばいいのだ。


「働き者だねぇ」

 芝居がかった甘ったるい声で呟き、私に一言もなく座席をスライドさせて背もたれを傾けた。くつろいだ様子で満足そうな声をだす。

「今日のショーは大成功だったな。観客の好みを知りつくしたオレの脚本と演出の上に、この素晴らしいヒロイン」

 胡散臭うさんくさい司会者が本日のゲストを紹介するように、タカシがママのほうへ片手を伸ばした。

「上手くいかないはずがない」


「何が言いたいの?」

 ママが鋭く切りこんでも、タカシは答えなかった。

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