第3話 人生のテーマソング

 このところ、ママは同じCDを朝から晩までかけっぱなしにしている。

 くりかえし聞かされるうちに、メロディーも曲順も全部覚えてしまった。

 外国語の歌なので、意味はちっともわからない。

 ただ一曲を除いて。それは最後の曲で、ママのお気に入り。

 

 私は また始める ゼロから

 という一節が気に入ったのだそうだ。

 最初のうちは、私も好きだった。希望に満ちた歌に思えたから。


 今、ママはゼロを目指して果てしない崖を登っている。

 私を、背負って。


 あの日、ママはご機嫌で帰ってきた。

「紅茶の師匠が薦めてくれた映画が、すごく良かったからCDも買っちゃった」

 得意先を本名で呼ばずに『なんとかの師匠』という渾名あだなで呼ぶのがママの流儀だ。

 紅茶の師匠のオフィスに出向くと、いつも素敵な香りの紅茶でもてなしてくれることから思いついたニックネームだった。

 ママの仕事ぶりを高く評価してくれて、気前よく報酬を支払ってくれる社長さんらしい。


「師匠のお気に入りの紅茶を一緒に飲もうと思って買ってきたの。ケーキもね」

 とっておきの華奢なカップに注がれた紅茶からは、甘くて強い香りが立ちのぼってくる。花や果物から抽出した香りを加えた特別な紅茶なのだそうだ。

 

 ママが私に選んでくれたのは、色とりどりのフルーツが敷き詰められたタルト。

 ママのは、シンプルなチーズケーキ。


「今日は、お祝いなの。借金がゼロになったお祝い」

 思いがけない嬉しいニュースに、歓声をあげて手を叩いた。

 

 でもそれは、本来はママの借金ではなかった。

 あの疫病神が、ママに負わせたものだ。


「紅茶の師匠がくれた仕事のおかげで、思っていたよりずっと早く完済することができたの」

 紅茶の師匠、万歳ばんざい


「今の仕事は働いた分しかお金にならない。正社員みたいに、病気で休めば有給が使えることもないし、保障もないし退職金もない。こんな働き方は、いつまでも続かないの」

 いつまでも続けばいいのに。

 つやつやのタルトが美しすぎて、なかなかフォークが入れられなかった。


「次のプロジェクトではパートナーにならないかって、紅茶の師匠に誘われているの。大きなプロジェクトだから時間がかかるけど、成約できたら成功報酬を払うって。すごい金額よ。なにより、成功報酬って言葉の響きがいいでしょう?」

 なにがなんだかさっぱりわからないけど、ママの機嫌が良ければそれでいい。

 それに、紅茶の師匠はいい人だ。あの男とは違う。


「事業のパートナーなんて初めての経験だし不安はある。でも、このチャンスを逃がしたら、今までと同じことの繰り返し」

 ママは買ってきたCDをプレイヤーに滑りこませ、最後の曲にセットした。

「これはね、過去を清算してゼロからまた始める、っていう歌。私の人生のテーマソングにする」

 朝日が昇るにつれ視界が開けていくような前奏が、伸びやかで力強い歌声を導く。

 失敗も嫌な思いも過ぎたこと。過去は戻ってこないし繰り返さない。

 

 あの男、タカシとのことは借金と一緒にゼロになった。

 

 これからのママと私、二人の新しい人生をお祝いしよう。

 私はフルーツタルトの最初の一口をだいじに味わった。

 

 それからママは映画の話をしてくれた。

 有名な歌手の生涯を描いたフランス映画で、まさにママ好みの話だったらしい。

 ママが魅せられるのは、栄光と不幸がセットになった女の人生。今を時めくセレブ女性の話は胡散くさい、不幸ばかりの女性の話は辛気くさい、とママは言う。


 機嫌よく話している今ならヒントくらいは得られるかもしれない。タイミングを見計らって、天秤の上皿に薄い分銅をそっと乗せるようにすれば。


「フランス語もわかるの?」

 緊張から、まとはずれな質問をしてしまった。


「いいえ全然。でも読むだけなら何となく。どうしてだと思う?」

 逆に質問されてしまった。それでも、少しも気分を悪くしていない様子なので安心した。まだチャンスはある。


「今から千年くらい前に、イギリスはフランスに征服されたの。それから二百年以上も、英語を話さない人たちに支配されていたから、言葉にも大きな影響があった。短い期間で大量に入ってきた、当時の英語には存在しない物や概念を表現するためには、フランス語をそのまま借りて外来語として取り入れるしかなかった。英語の語彙の半分は、その頃のフランス語由来だっていう説もあるくらい。だから綴りを見れば、意味の推測ができる単語がたくさんあるの」

 どうやらギアが仕事モードに入ってしまったらしい。


 ママは物知りで話がうまい。

 ママの言葉は、暗い部屋のカーテンをさっと開くよう。窓から差し込む光で、部屋の中も外もずっとよく見えるようになる。


 私には昔から、こんなふうに開いてほしいカーテンがある。手の届かない高いところにあって、そよぎもしない暗い布。


「だけど、フランス語と英語は発音が違うから、耳で聞くだけでは関連があることに気づけない。中国語と日本語の関係に似ているの。漢字を見れば何となく意味がわかっても、発音されると全く分からないでしょう?」


 こんな時のママは、満開の桜のように美しい。


 この美しい季節が、いつまでも続けばいいのに。

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