第4話 パンくず

 名前を呼ばれて、目蓋まぶたが開いた。

 

 さっきより遠くにママの背中が見えた。

 リビングの時計に目をはしらせる。お昼時ひるどきをだいぶ過ぎていた。

 

 ママはビニール袋から食パンを一枚取りだし、私に手渡した。

「とりあえず食べて。外でお腹が鳴ったりしたら、みっともないから」

 お腹は全然すいてなかったけど、今はとにかく、意見を述べたり逆らったりしてはいけない。

 

 私は立ったままで食べはじめた。

 今日のためにママが縫いあげたワンピースがシワにならないよう、座ってはいけないと言われていたから。

 ふわふわのきれいなレースにパンくずを散らさないよう、腕を伸ばしてひとくちサイズにちぎって丸め、機械的に口に入れる。

 毎日ママがピカピカに磨いている床に、パンくずがひとつ、落ちてしまった。パン粉くらいの大きさの。


 あの男に初めて会ったのは、トゥシューズでの練習を始めたころだ。

 買ったばかりの革靴の中で、歩くたびに指のマメがこすれて痛かったことを覚えているから。


 男はママの友達のタカシと名乗った。


海老えびが好物だってきいたから、一番うまい海老フライが食える店につれてきたんだよ」

 『ずれている』と思った。でも『いい子にして余計なことは言わない』と出かける前にママと約束したから黙っていた。

 

 私の好物は、ママがつくる海老グラタン。

 ホワイトソースの中で丸い背中をほんのり赤くそめて、スプーンにちょうどよくおさまる大きさの海老が大好き。

 

 でも、あの日の海老フライは、アイスキャンディー並みに太く、お皿からはみだしそうに長かった。私が好きな海老とは何もかもが違う。

 それでも不正直に笑顔をつくり、黙ってフォークで突き刺すと、ザリッと嫌な音がして、きつね色のパン粉が散らばった。


 美しくないから、早く食べてしまおうと思った。

 

 耳障りな音にたえながら切り分けて口に入れる。

 衣のトゲトゲがいっせいに噛みついてきて口の中が痛い。

 極小サイズのピラニアどもを押しつぶしながら中身を味わうと、確かに海老の味がした。認めるのは少々腹が立つけど、おいしかった。


 まあ、おいしいのは当たり前だ。

 海老だもん。


 嫌なことを思いだしてしまった。

 うれしかったことをおもいだしながら待っていようと頑張ったけど、もう限界だった。

 

 歌のせいだ。

 歌い手は、まるで地の底に流れる力を足の裏から吸い上げて、真っ赤な唇の隙間の暗闇からどくどくと溢れさせているようだった。

 耳にこびりついて離れない歌声が、楽しい思い出を手の届かないところまで遠ざけてしまうのだ。

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