第35話 種を庭に蒔いて
ミンラが送ったサインに、ママは気づいただろうか?
彼女が求めているのは、主人の
いつものママだったら採用されたはずなのに。ここまでのママの振る舞いは少しも魅力的じゃなかった。
今日のママはミンラに相応しくない。悔しいけど、たぶんママは不合格だ。
家を出る直前の、ママの言葉が心の底で暗い渦を巻く。
「今日の面接がうまくいかなかったら、私たちは終わりなの」
黒い食べものと黒い飲みものが胃の中に納まった。
誰ひとり拒まれないという満月の宴の光を器に残したまま。
食事を終えて、皆が席を立った。私はテーブルを回ってミンラに挨拶をした。もう二度と会うことはない、そう思うと寂しかった。
ミンラは笑顔で応えると、ちらりと振り返った。そこには小さな銀の籠を持った川端さんが控えていた。籠の中身はアイメルの実の種だ。
「あなたに頼みがあるの。私たちが話しあっている間に、種を庭に
「庭って、どこですか?」
ミンラは窓のほうを大雑把に示した。
「どこでも、あなたの好きな所。東京だと気候のせいか、なかなか芽がでないの。だからそんな深刻な顔しないで。ぶらぶら見回って、気が向いた所に蒔けばいいから」
私は深刻そうでない表情をつくって頷き、籠を受け取った。
ミンラは笑顔で私を送りだし、ママに声をかけた。
「さあ、マリコ。私の書斎で話をしましょう」
そして、ママと腕を組んだタカシがついてくるのを
「タカシ、ここから先は女同士のビジネスの話。あなたはマリコの父親ではないし、マリコは大人の付き添いが必要な小さな女の子でもない」
父親という皮肉に、胸のすく思いがした。
ミンラは二人を引き離して、ママとだけ話をするつもりだ。もう望みは無いと思っていたけど、一対一の面接なら挽回できるかもしれない。本来の姿を見せることができれば、きっとママは気に入られるはずだ。
廊下にでると、足が勝手に踊りはじめた。
華やかな赤い絨毯が、靴の下で
螺旋階段の手すりに手をかけ、天井を見上げながら駆けおりる。身体が横に引っ張られる感覚が心地よい。手すりから離した手で籠に蓋をし、最後から三段目で踏みこみ大きくジャンプ。むき出しの肌が冷たい空気を押し分けてゆく。うんと柔らかく、足首と膝を使って着地。
シャンデリアのあるホールを小走りで通り抜ける。
ここまで、あっという間だった。最初は巨大な迷路に思えた屋敷だけど、実際はそれほど大きくないのかもしれない。
明るい色の木製の扉は、上の方が波のような加工を施した分厚いガラスになっている。ドアノブは、ピカピカに磨かれた真鍮製。触ったら指紋がつきそうだ。
今日の私は財布だけでなく、ハンカチさえ持ってきてない。ドアノブを皮脂で汚さないためには、スカートの裾を使って布の上から
結局、親指と人差し指、中指だけで挟んで回した。
頭上のガラス越しに、玄関ホールの照明が灯ったのが見えた。
後ろ手にドアを閉め、ホールの真ん中まで進みでる。
姿勢を正し、お腹の前で籠の上下を両手で挟み、目を閉じて待った。
すうっと身体が伸びて、頭のてっぺんに小さなバレエのかみさまの存在を感じた。完璧なバランスを保ってピルエット。背中で空気を押しのけ、足で風を切って回り続ける。渦の中心は私。
そのままの勢いで、外につながる重厚な扉の前までくると、ドアノブをしっかり掴んで回し、力を込めて押した。
びくともしない。体重をかけて、もう一回やり直しても同じ。
ノブを握っていた手を離し、その手を扉にかざして目を閉じた。落ち着け。扉を開けてくれた川端さんを最初に見た時、彼はどこに立っていただろうか?
もう一度ノブを回す。鍵がかかっているわけではない。ちょっと考えてから、引いてみた。分厚いドアが苦もなく開き、外の光がどっと流れこんだ。
やり方が間違っていれば、開くものも開かないのは当然だ。気持ちを静めるために深呼吸し、扉の外へと踏みだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます