第9話 奇妙な守備練習

 今年の夏は、途方もなく暑くて長かった。

 洋服越しでさえ肌に刺さる陽射しに焼かれ、熱と湿気の粘つく膜に覆われ、鳴きやまないセミの狂声に頭の芯を揺さぶられる。

 夏って、こんなに容赦のないものだったっけ? このままいったら、いったいどうなってしまうのだろう。

 そんな不安に首までつかりながら、ひたすらなにも考えず、なにも感じないようにしてやり過ごしていた。


 ママは紅茶の師匠とのビジネスの損失を、通訳やガイドの収入で埋めあわせようとした。でも、今年は東京に来る予定をキャンセルした人が予想以上に多かったため、普段なら断る条件の悪い仕事も引き受け、ろくに休みもなく働き続け、愚痴の一つも言わなかった。


 学校で毎週ひとつニュースを選んで調べ、自分の意見をまとめる宿題をやり続けて、わかったことがある。

 ママが戦っているつもりの相手は、アメリカ発の世界経済危機、超円高、個人で背負うには大きすぎる負債、不安定なフリーランスの仕事。そのうえ、だれにも頼らずに子供を育てている。


 ママが成し遂げようとしているのは、地球を中心に太陽を回そうとするのと同じ種類の試みだ。それが実現しないのは、ママの努力や能力とは関係ない。もともと不可能な挑戦なのだから、破綻するのが必然なのだ。

 たとえ全人類の根性を結集しても、地球を中心に太陽が回ったりはしないように。


 だから、ママは自分を責める必要はない。それに、私がいつも味方であることを、少しでも力にしてほしい。それをわかってもらいたくて、せめて話を聞いてもらいたくて、何度も何度もひとりでリハーサルをしてみたけど、結局、なにも言えないままで夏は終わった。


 ママは自分で決めたルールでゲームを戦い、そこで勝つために全力を尽くす勝利至上主義者だ。良かれと思って「そんなゲームやルールに意味はない」と声をかけたら、必死で戦っているプレイヤーを怒らせるだけだ。


 あの日、野球場では奇妙な守備練習が行われていた。

 監督らしき人が、正面でグローブを構える特定の少年だけにノックを繰り返す。

 その他大勢は押し黙って、遠巻きに見ている。


 監督の手元でゆるく上がったボールが、バットに当たって前方に飛び出す瞬間に、金属製の犬の鳴き声のような耳障りな音がする。その合間に怒声が撒き散らされる。

 ボールは少年が走って追いつくギリギリの位置を狙って打たれるので、少年の動きはテニスの試合じみていた。


 バレエ教室で起こったことのショックで、まだ頭がぼんやりしていた。フェンスの向こうの出来事は、テレビに映る世界のように現実感が無かった。


 ママは監督から最も近い位置で立ちどまり、練習の様子をじっと眺めていた。私を待っているわけではなさそうだ。

 どうしたのだろう? ママは野球に興味はないはずなのに。

 少し距離をとったまま、私もフェンスの内側を眺めた。


 大声で、わかりやすく、よくしゃべる監督だった。おかげで、少し立ち聞きしただけで事情がわかった。

 甲子園で活躍して、プロ野球選手になることが少年の目標であること。その少年が上級生のかわりに抜擢されて試合に出場し、致命的な失敗をしたこと。そのためにチームが、年に一度の大会の予選に敗退したこと。


 だから、わざと無理な打球を追いかけさせ、捕れなければ罵声をあびせ、捕れても「遅い」だの「もっと声出せ」だのと難癖をつけているわけだ。


 めったにこの辺に来ないママは驚いたのかもしれないが、ここの野球部の練習は、いつもこんなものだ。

 失敗したら皆の前で責められ、苦しむ様子をさらさなければ許してもらえない。

「やめろ」の怒声に「続けさせてください」の哀願で返すのは、クライマックスのお約束のやりとりで、通りすがりの者は聞き流すのが作法だ。


 ものすごく理不尽だとは思う。でも、私は彼らを気の毒だとは思わない。

 野球は、特別だから。

 日本の高校三年生だけの競争でトップを争うレベルなら、家が買えるほどの契約金をもらってプロになれる。


 バレエの場合は、たとえ国際コンクールで優勝しても、そんな大金は稼げない。念のためにリョウコ先生に確認してみたら、きっぱり「無理」と言われた。


 お金が出ていくばかりのバレエだから、いつまでも続けられるはずはなかった。それは前からわかっていて、覚悟もできているつもりだった。

 でも本当にその日が来て、しかも想像を超える断ち切り方をされてしまった私には、好きなことで大金を手にする可能性がある男子を気の毒に思う気持ちは、ひとかけらも持ちあわせていなかった。


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