第10話 ママは正しい

 さすがに疲れてきたのか、少年の動きが鈍くなる。逆に怒号は勢いを増す。

 もう聞いていたくなかった。私には関係ない。はやく家に帰りたい。


 でもママはハンターのような目をして、静かに成り行きを見守っている。


 少年は、悪意のある打球めがけて飛び込んだもののそこね、ついに長々と伸びた姿勢で動かなくなってしまった。呼吸が荒い。

「下手くそ、休むな、根性なし」立て続けに監督がわめいた。


「先輩たちの最後の夏を台無しにしやがって。下手なら下手なりに、せめてチーム全員の前で根性ぐらいみせろ」

 少年の手足は、瀕死の甲虫みたいに空しくグランドの土をかいた。


「わかった、もうやめろ。根性が無い奴に、野球を続ける資格はない」

「続けさせてください!」


 くぐもった途切れ途切れの涙声に、ざらついた怒声がかぶさる。

「クビだよ。続けたって意味ないだろ。おまえにプロ野球選手なんて、どうせ無理なんだからよ」

 よろよろと立ち上がりかけた少年めがけて、力任せにボールが投げつけられた。球は少年のももに当たって跳ね返った。そして、しつけの良い犬に運ばれるように、監督の足元まで転がってきて止まった。


 その時だった。真横から大声が聞こえた。

 びっくりして見ると、ママは携帯を高々と掲げて叫んだ。「110番!」

 なんだかすごくドラマチックな姿だ。全く意味がわからないけど。


「警察に通報します。未成年に対する虐待か暴行か、とにかく現行犯で」

 声の主の方に振り向いた監督は、道化役のように顎とバットを同時に落下させた。何が起こったのかが理解できるまで、しばらく動きが止まっていたが、しぶとく気を取り直すとドラ声で言い返してきた。

「見てわかるだろ? これは野球の練習で、指導の一環なんだ。だいたいアンタには関係ないだろ」


 ママは鼻で笑った。謎解きをする名探偵みたいに自信ありげだった。

「さっきクビだって言ったじゃない。あなたこそ、もう彼とは何の関係もない。公衆の面前で、倒れた子に思いきり硬球を投げつけておいて、警察に通報されずに済むと思うわけ?」


「違う、クビじゃない。当たり前だろ? 本気じゃない。わからないのか?」

 監督の声が徐々に裏返ってきた。常識が通じない通行人に通報されることを、本気で心配しはじめたようだ。気の毒に。


「野球を続ける資格がない、意味がない、どうせ無理」

 ぞっとするほど平坦な調子で、ママは監督の台詞から狙っていた獲物をゆっくりと抜きだして並べてみせた。一瞬の沈黙の後、矢のように鋭い言葉が凄味の利いた声で放たれた。

「おまえが決めるな!」


 私の心臓がぎゅっと縮こまったのは、「」という言葉が刺さったからだ。最初は「あなた」だったのが「おまえ」に変わるほどの怒り。それがキリキリと伝わってきたから。


 ママは携帯を持つ手で、まだ倒れている少年を示しながら、同じ調子で続けた。

「彼がやると決めたことを、否定する権利は誰にもない」


 ああ、それか。やっと私は理解した。


 自分で決める、ということをママはとても大事にしている。

 私もことあるごとに「自分で決めなさい」と言われてきた。

 なんだか突き放されたような気がするから、そう言われるのは嫌だった。


 だから一度だけ、はっきり伝えたことがある。「ママが決めて」と。

 ママに満足してもらいたい、でも、自分ではどうすればいいかわからない。それなら、ママに決めてもらうのが一番いい。

 ママの返事はこうだった。

「それじゃ、人間じゃなくて、飼い犬と同じよ。それでいいの?」


 私が大事にしているのは、いつも穏やかで楽しい気持ちで過ごすこと。それに比べたら他のことはどうだっていい。でも、正直に答えると軽蔑されるので、小さい声で嘘をついた。「飼い犬じゃ、ダメ」


 言えなかった本心が、私に呪いをかける。

 私はママの飼い犬だ。

 だから、捨てられはしない。

 ママは責任感が強いから、自分の飼い犬を捨てたりはしない。絶対に。


 監督は、いつもの指導を犯罪として通報されるのかと心配したのに、風向きが変わって拍子抜けしたような表情を浮かべ、この機を逃さず場を収めようとした。

「クビにしてない。クビにしてないんだから、なにも問題ないだろ? 帰ってくれよ、練習の邪魔だから」


 おとなしく帰ってほしかったら、降伏するしかないのに。これからは個人の意思を尊重する、と約束すればいいだけだ。

 ママは奇妙なことに、人は約束を守るものだと信じている。もちろん、約束をたがえたのが後でわかったら、大変なことになるのだけれど。


 ママが諦めると思ってさっきの台詞を言ったのなら大間違いだ。案の定、ママは舗装された歩道から、一段高くなっている芝生に上がり、ずんずんとグランドの出入口に向かっていく。中に入って本気で対決しようとしている。


「ママ!」思わず呼びとめた。


 一瞬でフェンス内の全ての視線が私に集中した。

 容赦ない好奇の目が、私の体からママの要素を引き算する。そして、残ったものから、ここにいない男の姿を見通そうとしている、ように思えた。

 急に喉の奥からボールのような物がせり上がってきて、続きの「やめて」という言葉を塞いだ。


 ふいにたがが外れたように、ママはフェンスを鷲掴みにして金網のたわむ音をバックに、怒りの蒸気のような言葉を噴きだした。英語だった。

 監督は、あまりの迫力に後ずさった拍子に足元の球を踏んで転び、はでな尻餅をついた。


 やがて、フェンスの内側の音と動きが全て消えると、ママはものが落ちたように歩道に降りて歩きだした。


 太陽の光にきらめく黒髪を、スーパーヒーローのマントのようになびかせながら。


 ママは正しい。バレエをやめたのは本当にお金が続かなかったからで、それは私もよくわかっている。


 ママは正しい。あの監督がしていたことは、フェンスとユニフォームでカムフラージュされた虐待以外のなにものでもない。


 ママは正しい。なのに、このいたたまれない気持ちは何だろう?


 結局、この気持ちを表す言葉はみつからなかった。 

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