第11話 悪い魔法使い

 あの酷暑の日々をどうやってやり過ごしたのか、今ではほとんど思いだせなくなっている。

 

 爽やかな風に吹かれて無言のまま歩き続けた。

 ふと耳障りな硬い音が聞こえて、反射的に振り向いた。


 野太い叫び声が、打球にあわせて上がって下がる。外野手が猛然と太鼓腹を揺らしながら走り、ボールをグローブに収めたけれど送球は間にあわなかった。それでも、太鼓腹の健闘を称えて、まばらな拍手と歓声があがった。

 この同じグランドで、上手くいってもいかなくても機嫌良く続けられる野球もあるのだな、そんなことをぼんやり考えた。


 野球場もその隣の大きな公園も、何事もなく通りすぎた。

 バス通りの交差点が見えてきた。


 横断歩道のこちら側は、大きなマンションの影になっている。日の当たらないところで信号待ちをしていると、むき出しの腕や首筋に風が冷たく感じられた。


 赤信号の向こうでは、眩しい光の中、小さな子を真ん中にして手をつないだ男女が、ちょうどコンビニに入っていくところだった。

 濃い影の中で、信号が変わるのを待っているのはママと私の二人だけ。

 私たちは暗く冷たい海の底で、息をひそめる深海魚みたいだ。


 渋谷行きのバスがやってきた。もうすぐ青信号になるし、バス停はすぐそこ。走れば間にあうだろう。

 ママの視線をつかんでバスの方に投げた。指差す必要はない。バスの方向へ左肩をほんの少し押しだし、肘を薄く浮かせるだけ。


 リョウコ先生に『バレエで学んだことを、自分の人生に活かしなさい』とアドバイスされたのをきっかけに試行錯誤してきた。

 今では、めったに吠えない犬が一声で飼い主の注意をひきつけるように、わずかな腕の動きでママの視線を狙い通りに動かせる。もちろん、ママには悟られずに。


 ママは確かにバスを目で追っているけど、バス停に向かう気配はない。

 こっちへ来たのなら、バスに乗るはずなのに。


 日傘をさした女の人が、マンションの自動ドアから犬と一緒にでてきた。犬は飼い主を追い越して、公園に向かって走りだす。飼い主は「こっちよ」とリードを引いて、反対側へ連れて行った。

 私も同じだ。行先も行き方も教えてもらえない。


 コンビニの出入口に一番近い駐車スペースには、メタリックブルーの車が物顔ものがおで停まっていた。サングラスにスーツ姿の男が車のルーフに片肘をつき、コーラのペットボトルを掲げて交差点の方を向いている。信号が変わると、テレビコマーシャルみたいにコーラを飲み干した。そして、こちらに向かって手を挙げて挨拶した。

 私は後ろを見た。そこには誰もいなかった。悪い予感がした。


 横断歩道を渡りはじめたママの後ろから、少し遅れて用心深くついていく。

 ママはコンビニには入らず、その男の前でとまった。男はサングラスを持ち上げて眩しそうにママを見ると、芝居がかった節回しでこう言った。


「さすが、華があるねぇ」

 その一言は魔法の呪文のように、深海魚を熱帯魚に変えた。


 私は同時に二つのことを思いだした。

 男の名前はタカシで、これがタカシの得意技。

 暗闇に沈んだママを杖の一振りで輝かせ、私から遠ざける悪い魔法使い。


「お待たせ」ハリのある声でママが言った。

「そりゃ、こっちの台詞だ。ずいぶん長い間、待たせて悪かったな」


 タカシは助手席側のドアを開けた。ドアは左右に一つずつしかついてない。

 運転席はタカシで助手席がママならば、私の場所はどこだろう?

 一瞬、犬になってしまったように錯覚した。飼い犬は飼い主の足元で丸くなればいいのかも。


 ふと素晴らしい考えがひらめいて我に返った。

いやだ」と言ったら、どうなるだろうか?


 癇癪をおこした小さな子みたいに地面に引っくりかえって、空に向かって泣きわめいてみたら、どうなるだろう?

 服も髪も地べたにこすり付けてぐちゃぐちゃにすれば、体面を気にするママのことだから、今日は帰ることになるかもしれない。


 あるいは私だけ、ここに置き去りにされるかもしれない。


 古い歯車が回るような耳障りな音をたてて、タカシが助手席を前へ滑らせ、後ろのシートに乗り込めるように隙間をつくった。私はまだ同じ場所に立ち尽くしている。ママがやってきて私の背中に手をまわし、そっと前へ押しやった。


 嫌と言うなら、もう今しかない。でも、胸の中に空気が足りない。


 背骨にこぶしが押しつけられるのを感じた。私の背骨の窪みに、ママの指の関節がぴったりと噛みあう。すると勝手に足が動いて、気がついたら車に乗っていた。錆びたシャッターを閉める音がして、助手席が目の前に迫ってきて止まった。その席にママがふわりと座ると、タカシは軽い音をたててドアを閉めた。


 何があってもがまんしろ、とはこのことだったのか。

 私が嫌がるとわかっていたから、あんな約束をさせたのか。

 ママが嘘をつかずに済むように、私には何も教えなかったのか。

 それって、それって、何と言えばいいのだろう?

 またしても気持ちを表す言葉はみつからなかった。


 みつかったところで、もう遅かった。私が開けられるドアは無い。車から降りるには、まずママが外にでて、それから助手席をどけなければならない。そういう構造の車が走りだしていた。

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