第8話 今日でバレエをやめさせます
野球場の前の歩道は五人並んで歩けるほど広かったけど、私はママから少し離れてついていった。
草野球に興じる大人たちが、笑いながら野次と冗談を飛ばしあっている。
野球少年だった頃に、根性みせろだの、口は動かすなだのと言われてきた反動だろうか。無理だの、痛いだの、もう年だのと愚痴りながら、嬉々としてダメさ加減を競いあっている。
今日は理不尽に怒鳴られている野球部員はいない。だから何事もなく通り過ぎることができるはずだ。
フェンスの向こう側の別世界。別世界の声なんて、聞こえなければいいのに。
脱いだ背広を腕にかけ、草野球を眺めながら歩いてくる男がママに目をとめた。
フェンスの向こうを見るのと同じ無遠慮さで上から下まで眺め、すれ違ってもまだ見ているので、ふらふらと電柱に引き寄せられていく。
電柱にぶつかれ!
強く念じたのに、腹立たしいほど上手くかわした。
私の視線に気づくと、照れ隠しのように片頬だけで笑って行ってしまった。目を離せなかった美女と私の血縁関係には気づきもしなかったようだ。
私たち二人を見て、私がママの娘だと気づく人はまずいない。
ママがすごい美人なのに、私がそうでないからだろうか。とにかく見た目が違いすぎるので、親子だなんて思いもしないのだ。
前回、ママとこの道を歩いたのは、今年最初の真夏日だった。
高級ブランドスーツに身をかため、バレエ教室に乗りこんできたママは、ぐいと私の肩を引き寄せるなり、リョウコ先生に宣言した。
「今日で、バレエをやめさせます」
挨拶も、日頃のお礼も、なにより理由の説明も一切なし。
もちろん、リョウコ先生は引き留めて理由を尋ねてくれた。
ママは賢者が未熟者に教え諭すように厳かに答えた。
「この子、バレエは自分で踊るより観るほうが好きなので」
そして用件は終わったとばかりに
私は女王陛下の長い長いマントのように、そのあとに付き従った。
振り返ると、口をぽかんと開けたままのリョウコ先生の姿が小さくなっていた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、やっと声がでるようになった。
「引っ越すことになったんです」
とたんに、ママに荒っぽく手首をつかまれ、引っぱられて転びそうになったので、他のことは伝えられなかった。
やっぱり一人で来て、ちゃんと話をすればよかった。
そんなことが私にできるとは思えないけど、こんなことになるくらいなら無理をするべきだった。
私が「やめたくない」と言えば私とママの問題なのに、「やめるなんて先生に言えない」と卑怯な言い方をした私が悪い。だからママが乗りこんできた。
いつか、先生はこのことを誰かに話すだろうか?
気心の知れた長年の生徒に話すいろんな親御さんに、ママが仲間入りするのかと思うと、いたたまれない気持ちになった。
目を背けたい現実に突き当たるたびに、居心地のいい隠れ家と小さなバレリーナの笑顔に逃げこんだ私とは反対に、ママはひとりで八方塞がりの現実に立ち向かっていた。
以前は、ママが留守の時の電話を受け、秘書のように受け答えをして伝言をメモしていた。郵便物や新聞を取ってきて仕事机にきちんと並べておくのも、自分で決めた私の仕事だった。
ある時から、留守設定にしてある家の電話にも郵便受けにもパソコンにも、決して触れてはいけないと厳しく言い渡された。
はじめは、私のミスで来るはずの連絡を受け損ねないようにするためだった。
事態がさらに悪くなってからは、私に知らせたくないことを伏せておくためだったのだと思う。
働きづめで家にいないことが多くなっても、一緒に暮らしていればわかってしまうことはいろいろとある。電話に触らなくても、私が家にいるときにメッセージを入れられたら、録音中の要件は聞こえてしまう。
要するにこういうことだった。
紅茶の師匠とのビジネスが不調で、パートナーのママは多額の負債を抱え、その支払いが滞っている。
ママはこのことを、紅茶の師匠のせいにも、百年に一度といわれる不況のせいにもしなかった。いさぎよく自分が悪いと認め、逃げることも助けを求めることも
サムライの心を持つママは、己の非力をとてつもなく恥じている。
だから、なにかをしたり、しなかったりする本当の理由がお金にある場合、それを隠すためにでっちあげる話の行く先は予想がつかない。
わかっているのは、後で必ずびっくりさせられるということだけ。
なぜなら、ママは人生の大女優だから。
やろうと思えばいつでも、私たちを突拍子もない舞台に突き落とせるのだ。
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