第7話 劇場だけが舞台じゃない

「ここに逃げてきてるのよね。将来のこととか、ゴチャゴチャ言われるから。いいのよ。長い人生、立ち向かってばかりはいられない。逃げる時はあっていいの。だから、私は受け入れてきた。でもね、自分が逃げてきたってことを都合よく忘れちゃダメ。次に、なにを言われるか知ってる?」


 リョウコ先生は鏡の中の私から視線をそらすと、まるですぐ目の前にクラスの子たちがいるようにしゃべりだした。

「先生に媚びて好感度を上げようとしてるぅ。それで発表会で良い役をもらおうとしてるぅ。ずるぅーい」

 

 心臓が凍りつきそうになった。でも、先生の口調がわざとらしすぎて、唇がもぞもぞしてしまう。


「百パーセント確実な未来予想をするとね、こういう声は無くならない。逃げた先で居心地悪くなったら、また逃げるっていうのが絶対ダメとは言わないけど、長い人生、逃げてばかりもいられない。それにね、逃げて馴染なじんでの繰り返しじゃげいが無いでしょ、芸が。あなたの教師として私が許せないのはそこ。教え子の芸の無さ。何年ここでバレエをやってるの?」

 

 自分のずるさを指摘され、まして許せないなんて言われてショックだった。でも頭のどこかで、はてなマークがという言葉に貼りついている。


「あなたみたいな若い子には信じられないと思うけど、私みたいな三十代のバレエ教師にも十代の頃があってね」

 

 もちろん、信じていますとも。


「私だって、更衣室で悪口言われることくらい普通にあったよ。陰口たたかれるのは勲章だ、ぐらいに思って無視してたけどね。つまんないことをこそこそ言いあって、くすくす笑って、憂さ晴らしで時間を無駄にする人たちと同じレベルに落ちるものかって。でもある日、とうとう堪忍袋の緒が切れた私は、さて、どうしたでしょう?」


 いきなりクイズをだしてきた先生は妙に生き生きしている。私はこういうのが苦手で、言い返すとか誰かに相談するとか、いたって普通のことしか思いつけない。

 芸の無さが許せない、と叱る人のエピソードが平凡であるはずはないし。


 先生は、唇の両端をつり上げて頬にえくぼ深く刻み、ひときわ明るい声で言った。

「踊ったの」

 そして、私に得意げな流し目をくれた。


「こっちはひとり。相手はロッカーの向こう側にいて、全部で何人いるのかもわからない。そんなところに乗り込んでいくのは、普段の自分ではなかなか難しい。だから、踊るの。舞台で踊るのだと思えば、なんにでもなれるし、なんでもできる、それがダンサーでしょう? 物語も役柄も振り付けも演出も、なにもかも作り上げて、いきなり相手を自分の舞台に引きずりこむの。肝心なのは、最初の動作に心を込めること。誰も見ていなくても、自分が見ているから。役になりきれなければ、舞台そのものが成り立たない」


 先生は、に戻って踊りはじめた。


「爪先に冷たい怒りをこめて、床の上をすっと滑らす。ゆっくり体重移動して、今度は反対側の爪先を滑らせる。これを繰り返しながら少しずつスピードを上げて、怒りのエネルギーを増幅させていく。上半身は徐々に鎌首をもたげて膨らませるイメージで」

 

 説明しながら、更衣室の中ほどまで行って方向転換し、隣のロッカーの列に入り、こちらへ向かってくる。揺るぎない静かで大きな存在として。


「私は強い。必殺の毒を持っているから。私は強い。戦うか否か、相手に選ばせてあげるから。選ぶより、選ばせる私のほうが上。だから強い」


 私の横で立ちどまり、陰口をきいていた連中をねめつける。全身から怒気が沸き立っているのが肌で感じられる。

 こんなものが急に目の前に現れて容赦なく選択を迫ってきたら、どれほど恐ろしいだろう。心にやましいところがあれば、なおさらだ。


 ふっと緊張をとき、軽やかに向き直ると、リョウコ先生は勝ち誇った。

「これで、逃げも謝りもしない奴は一人もいなかった」


 そりゃ、そうでしょうとも。


「発表会の舞台と同じこと。始まる前は震えるほど怖くても、終わった後にはものすごい達成感と解放感がある。そういう経験を一度でもすると、それまでとは違う人間になってしまう。それ以前の小さな自分には決して戻れない、だって成長したんだから。あなただって、そうでしょう?」

 私は曖昧あいまいにうなずいた。


「それに劇場だけが舞台じゃない。本物のダンサーなら、どこだってステージにできる。ここで途方もない時間をかけてレッスンして、普通の人よりずっと自由に動かせる身体を持っているでしょう? 使いなさいよ。自分の人生に活かしなさい」

 

 先生は目の高さをあわせて、まっすぐに私を見つめた。


 私はリョウコ先生の瞳に映る、色の無い小さな自分をみつめていた。


「あなたが信じてなくても、私は信じてるから。きっとできるよ、リサ」


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