第6話 いろんな親御さん
駅に向かって歩きだすと「こっちよ」と呼びとめられた。
振り返ってママについていく。
電車に乗らないのだとすると、バスで行くのだろう。
座ったらスカートにシワがつくので、ずっと立って待っていたのだからタクシーに乗るはずがない。それにタクシーをつかったら、お金がかかりすぎる。
今日のママは、海のようなワンピースを着ている。
秋晴れの高い空の下、底知れない海の青をまとって私の前を歩いている。
スカートの揺れにあわせて白銀の瞬きが群れをなして行ったり来たり。
近づきすぎると、私の影が水面に落ちてしまう。少し離れて顔を見上げた。
まっすぐ前を向いて少しも頭を動かさず、大きなサングラスをかけて一言もしゃべらないので、顔だけを見ていると、息をしているのかさえわからない。
私の目の高さには、色ガラスの中に金箔を散らしたイタリア産ガラスビーズのネックレス。「箱根で買ったの」とママは事もなげに言っていた。仕事で箱根の美術館を案内したときに、ミュージアムショップで一目惚れしたのだそうだ。
この先は野球場だ。
ここから見えるフェンスには、セイタカアワダチソウの鮮やかな黄色と黄緑色が幾重にも重なって波のように打ち寄せている。草野球のおじさんたちが笑い声をあげながら試合をしている。
これはバレエ教室への通り道でもある。この前ここをママと一緒に歩いたのは、本格的な夏が始まった日のことだった。
小さい頃は、ただただ楽しかったバレエ。
学年が上がるにつれ、一人また一人と同じクラスの子が去っていった。
残った生徒の多くは、コンクールや海外留学やプロのバレリーナになることを目指していた。
私の頭は小さい頃のまま。音楽と踊りに溶けこみ、完全にその一部になる。そんな美しい瞬間を味わうために頑張るのが純粋に楽しかった。
ここより上や外を目指す少女たちと、できるだけ長くここに居たい私。
上手く調子をあわせるのが、だんだん難しくなっていった。
裕福な家庭の幸運なバレリーナの卵に「もっと上手くなりたくないの?」と真顔で問われても、どっちつかずの笑みが言葉のかわりに浮かんでしまう。
私はリョウコ先生に頼んで、子供たちのクラスを手伝わせてもらうようになった。
最初のレッスンの感動が忘れられなかったのと、幼い心がバレエを通じて何を見つけるのかを、一番近くにいて感じとりたかったから。
小さな子たちのクラスには昔と同じ時間が流れていて、懐かしくて居心地がよかった。先生の手伝いは楽しい。ひざまずいて、小さなバレリーナの素敵なところを褒めてあげたときの笑顔を見ると、嫌なことが全部吹き飛ぶ。
ある時、レッスンの終わりに、リョウコ先生が奇妙なことを言いたした。
「最後に皆さんに伝えたい大事なことがあります。小さなバレエのかみさまは、きれいな姿勢の頭のてっぺんに住むのが大好きなの。だからシャンプーをしても絶対にいなくなりません。安心してお風呂に入ってください」
もう私は気心の知れた年長の生徒だったし、もともとリョウコ先生は思いつきで話しかけても大丈夫な人なので、最後の子が教室を出たあとで理由を聞いてみた。
「私はね、子供たちが初めてバレエにふれる日を、
私は、びっくりしてしまって言葉がでなかった。
「そういうことが何度かあったから、最後に『シャンプーしても大丈夫です』って言い足すようになっちゃった。御伽噺をシャンプーで終わらせるのは、本当は嫌なんだけどね」
リョウコ先生は小さくため息をつくと、芝居っ気たっぷりに肩をすくめた。
「まあね、いろんな親御さんがいるのよ」
そして一息つくと、話の余韻でぼうっとしている鏡の中の私に向かって、思いもかけないことを言いだした。
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