第33話 アイメルの実の効果

 この自惚れ屋の分厚ぶあつつらの皮をどうしてくれよう?

 まだ何も思いつかないのに、ナイフとフォークをおいてタカシのほうへ向き直った。


 まず目にとまったのは、ワイングラスの中身だった。ワインの量がさっきより増えている。つまり、タカシは二杯目か三杯目を飲んでいる。だめだ、もう逃げなきゃ。


「ママ、バスで帰ろう」

「何を言ってるの?」

「お酒を飲んだ人が運転する車には乗っちゃいけないから」


 ママはタカシをちらっと見て、不機嫌そうに目をつむって一呼吸した。それから私の耳元に顔を近づけ、押し殺した声で命令した。

「いいから、黙って食べなさい」


 ママと私、それに知らない誰かの命がかかっているかもしれないのに、黙って引き下がるわけにはいかない。私の口は、ものを食べるためだけにあるのではない。ものを言う、という使い道だってある。


「私はバスで帰る。自分のことは自分で決める。ママのことはママが決めて」


 今までずっと聞かされるだけだった台詞せりふを初めて口にした。そして気づいてしまった。

「ママのことはママが決めて」と言いながら、ママに決めさせるつもりは全然ない、ということに。


「自分で決めなさい」という言葉には、文字どおりの意味のほかに「私の望むとおりに決めなさい」という意味があったのだ。


 ママが小さく息をのんだので、体の軸がぶれそうになった。テーブルの縁に手を置いてバランスを保つ。ママが弱々しく抵抗する。

「だって、お金を持ってないでしょう?」


 確かに、自分の財布は持ってこなかった。服にあうバッグがないから荷物は持たないように、必要なものはママが持っていくから大丈夫、と出かける前に言われたから。それにママの手作りワンピースには、ポケットがなかったから。


 でも、甘く見ないでほしい。お金がないからって、なにもできないわけじゃない。

 あらかた食べられて小さくなったロブスターに向かって、ママだけに聞こえるような小さい声で言った。


「交番に行って『飲酒運転の車に乗りたくないから、帰りのバス代を貸してください』って、正直に頼んでみる」


 素晴らしい! 私は今、最高にえている。


「あの人は、すごくお酒に強いの。運転も得意だし、本当に大丈夫だから」

 タカシが酒に強かろうが運転が得意だろうが、そんなことはどうだっていい。


 今度はママを飛び越え、タカシまで届く声をだした。

「ついでに車のナンバーを覚えていく」


 素晴らしすぎて、私自身の言葉とは思えないほど。食べると賢くなるという、アイメルの実の効果に違いない。


 ママが黙ると、ミンラが説明を求めた。

 私の危機感は何倍にも希釈きしゃくされ、取るに足りないこととして伝えられた。今のママは会話の主体であって通訳するのではないから、穏便おんびんに済ませたい気持ちが勝って話を捻じ曲げてしまう。


 案の定、ミンラにこう言われた。

「心配しないで、リサ。タカシは優秀なドライバーだから。たとえ脳がアルコール漬けになっていても」


 調子に乗ったタカシが、得々とくとくと語りだした。ウィスキーで体を温めた後に、凍結した路面でスタントまがいのドライブをしても車にキズ一つつけなかった、とかなんとか。

 ミンラは片手を上げ、見えない壁を押すようなパントマイムで、タカシを黙らせた。


「タカシの運転技術は確かでも、ライセンスはどう? 日本の警察は融通が利かないっていうし、東京の路上で運転免許証は買えないし。彼が免停になったら、私が自分で運転しなければならない。

 日本の交通ルールにまだ慣れてない今、私に運転させたら危険よ」

 ミンラはディスニー映画の魔女みたいに笑った。


「砂漠で妻が運転するジープに乗った時の話は、もうしたかな?」

 とぼけた調子で、ボスがつぶやいた。


「それは、私たち二人だけの秘密。とにかく、あなたたち二人は明後日から出張でしょう。素晴らしい運転技術があっても、ライセンスがない人は東京に居残りよ。だからもう、お酒はおしまい」


 ぬっと川端さんが現れた。ぽかんとしているタカシの横で、生真面目な様子の川端さんがグラスに炭酸水を注ぐ音だけが聞こえてくる。タカシのワイングラスは既に消えている。


 これ以上見てると噴きだしてしまいそうで、私は目をそらした。

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