第31話 プロコフィエフ

 ミンラの視線が私をとらえた。「好きなダンサーは誰?」

 予想がはずれて良かった。


 もちろん一番好きなのはアリーナ・コジョカルだけど、ここで女性の名前をあげたら子供っぽいと思われる気がして、つい心にもないことを言ってしまう。


「ジョナス・ジョイス」

「ああ、彼は有名ね。じゃあ、好きな演目は?」

「ロミオとジュリエット」


 また、いい加減なことを言ってしまった。ジョイスなら「ロミオとジュリエット」が一推いちおしだと、ナミちゃんが断言してたから。


 ミンラの質問は容赦なく続く。「作曲したのは、チャイコフスキー?」


 この質問で、ミンラもバレエに詳しくないのがわかった。

 バレエファンなら「ロミオとジュリエット」の作曲者がプロコフィエフなのは知ってるし、少なくともチャイコフスキーとは混同しない。

 リズムが取りやすいチャイコフスキーの曲と、カウントが無茶苦茶になりそうなプロコフィエフの曲では、ずいぶん個性が違うから。


 作曲者の名前を言うのは簡単だけど、さっきから私は固有名詞しか口にしていない。いい加減、きちんとした文で伝えないとママが気を悪くするだろう。

 せっかく気遣ってくれるミンラに、不愛想に間違いを訂正するような印象を与えることも避けたい。


 頭の中で英作文してみる。ええと、「チャイコフスキーは、最も有名なバレエ音楽の作曲家です。彼は『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』を作曲しました。しかし『ロミオとジュリエット』を作曲したのはプロコフィエフです」

 ほとんど固有名詞の羅列られつだけど、これが私の英語力の限界。それでも名前だけを答えるよりは好印象のはず。


 私より先に、フィリップが口を開いた。

「確かに、チャイコフスキーには『ロミオとジュリエット』という作品がありますが、バレエのための曲ではありません。バレエ音楽を作曲したのは、セルゲイ・プロコフィエフ。

 彼はロシア革命後、日本経由でアメリカに渡ってなんを逃れたのに、なぜか大粛清だいしゅくせいが始まっていたソビエト連邦へ戻り、プロパガンダに利用された天才音楽家です。彼のバレエ曲「シンデレラ」はスターリン賞を受賞しましたが、晩年は不遇ふぐうでした」


 だいたい知ってる内容だから英語でも理解できたけど、バレエ好きでない人にしては詳しすぎる。フィリップはバレエファンかもしれない。


 ミンラは呆れたように天を仰ぐと、フィリップに言った。

「プロコフィエフがサンクトペテルブルグ音楽院の入学試験を受けた時、彼の前にいた髭面ひげづらの志願者は、歌を一曲作ってきただけだった」


 彼女は、頬髯ほおひげがモジャモジャしてる様子と、薄っぺらい紙をつまんでヒラヒラするジャスチャーをした。

 なかなか表現力があるな、と私は思った。


「わずか十三歳のプロコフィエルの作品はオペラ、ソナタ、交響曲シンフォニー、ピアノ曲。たくさんある楽譜の重みで、まっすぐ歩けないほど。試験官は『この少年こそ、待ち望んでいた生徒だ!』って叫んだ」


 ミンラは体を揺らして山のような紙の重さに耐えて見せ、感激した老教授になりきって声をあげた。

 笑っていいか判断できなかったので、唇をかんで我慢した。


 「若き天才は、授業中に年上のクラスメートが犯したミスを全て記録していた。そして、自分で作曲した協奏曲コンチェルトをピアノで弾いて一等賞をとって卒業した。


 音楽家ではないけど、私がよく知ってる若者に似てる。彼も最年少で入学して首席しゅせきで卒業したから、さぞかし年長者の過ちに失望した経験が豊富でしょう。まさか彼は、私のミスを全て記録してないでしょうね。フィリップ」


 ボスが愉快そうに笑いだし、太鼓持たいこもちのタカシも後に続いた。

 ミンラは知っていて、わざと間違えたのだ。私に話をさせるために。


「プロコフィエルが帰国したのは、故郷を愛していたから。大勢が彼に警告したけど、生まれ育った国で生きたままおおかみに食われるとは思えなかったのでしょうね。


 でも自分の間違いに気づいたのなら、彼は逃げだすべきだった。とらわれ続けたら狼の栄養になってしまう。逃げだせば、たとえ少しでも、狼を小さく弱くしたことになるから。

 自由でいれば、小鳥だってピーターが狼をつかまえる手助けができる。

 だから私は、戦火や弾圧を逃れてきた人々に常に手を差し伸べる人間でありたいの。


 あらあら、ごめんなさいね。楽しいバレエの話題に戻りましょう、リサ」


 そんな深い話の後に指名されても困る。

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