涙の味
「う……なに? 何が……起きているの?」
騒動に気付き、ベッドの上で気絶していたセィルが目を瞬かせながら上体を起こした。
「セィル……良かった……無事か……」
苦痛に耐えながら、カイトがバンシーに目配せをした。
「お、おのれ悪魔め!」
状況を理解したらしく、セィルが声を張り上げる。
「我が主を痛めつけるものなら、我が浄罪の激流によって清めんことを――」
「そうです! 相手が殺し屋だろうと、チョチョが金縛りで――」
妖精と精霊が、同時に臨戦態勢に移る。彼女二人が力を合わせれば、八卦の達人だろうが、造作もないはずだ。しかし――
「やめろ! 手を出すな!」
血の唾を吐きながら、カイトは叫んだ。チョチョとセィルの体がぴたりと止まる。
「心がある限り、おれたちのお客様に代わりはないんだ!」
「何を言っているのカイト!」
シャーロットも今にも飛び出しそうだった。だが、彼女もまた〈アステリズム〉の大事な従業員。その手を穢させるわけにはいかない。カイトは、腹に力を込めて話した。
「ははっ。これが冒険小説なら、冒険家が勇猛果敢に戦って、華麗に悪党に勝つって場面かもしれない。だけど……おれはただの亭主だ。何の力も無く、人に頭を下げることだけが得意の……。だから、頼むっ。エクセレワン支配人!」
カイトはそのまま身を屈め、絨毯の上に頭を埋めた。
「おれはどうなってもいい! だが、チョチョたちは見逃してくれ」
心を込めて、カイトは嘆願した。ただ、訴えることだけが、この事態の解決策だと信じて頭を下げたのだ。
「それで僕の怒りが収まるとでも思っているのかい? ストーンズリバー君」
エクセレワンが指を弾くと、用心棒が頷き、鉄拳を見舞う。肘鉄が背中を打ち、カイトはどす黒い血を吐いた。
「止めてくださいっ」
チョチョの鋭い声を聞き、カイトは呪文のように呟く。
「すきやき……」
その一言に、エクセレワンは困惑する。
「何だ? 何を言っている?」
「チョチョが言ったんだ……。どんなときでも、笑顔でいられるお呪いだ……エクセレワン……あなたも……同業者ならわかるはずだ。人が見せる笑顔が、どんなに……温かいものか……。『ありがとう』『また来るよ』……何気ない一言に……どれだけ救われるか……思い出してくれ……」
「そうやって、同情を誘っているつもりか?」
「だから……もう……やめてくれ……。チョチョを苦しめないでくれ……」
ガラス玉のような涙を散らしながら、カイトは訴え続ける。
「君が思っている以上に、大人の世界は険しいのだよ。そしてその手は常に汚れている。僕はもっと輝きたいのだ。祖国が七つの海を支配したように、僕はありとあらゆるものを手に入れたいのだ。いずれはこの国を支配し、次は世界だ。さらなる高みへ、幸福と共に! その条件が、座敷童子! 座敷童子の幸福の力は、僕に勝利をもたらすだろう!」
エクセレワンが叫ぶと、中華ギャングが鎌のような腕をカイトの首に叩き付けた。
「がっ……」
「もうっ、我慢できません! カイトさん、チョチョは……」
チョチョがキッと唇を結び、前に出ようとするがカイトはまだ喋り続けた。
「疲れたときは……〈アステリズム〉に来てほしい。おれたちが、『おもてなし』をしますから……」
カイトは笑っていた。体中を痛めつけても、意識を失いそうになっても、死にそうになっても笑い続けていた。それが、カイトに残された、力だったから――
「ぐ……」
さしものオウストラルも苦虫を噛み潰す。その戸惑いがギャングにも伝播し、手が止まった。カイトは肩で息をし、時が過ぎるのを待つ。
そして――緊張が漂う中、鋭い声がロンドンの闇を穿った。
「よく自分を見失わなかった、カイト亭主」
闖入者の声に、この場にいた全ての人物の注目が集められる。カイトにも聞き覚えのある声だった。忘れもしない、シャーロット並に注意力の高い人物……。
「あなたは、ベルマンの……?」
真っ先に、シャーロットが声をかけた。闇のカーテンを潜って現れたのは、〈グランド・ポラリス〉のベルマン――グレイだった。
「私が来たからには、楽にするんだ」
グレイは倒れかけていたカイトの肩を優しく撫でる。
「グレイ……さん?」
「グレイ……なぜここにいる?」
動揺しながら、エクセレワンが部下のはずの男を睨む。グレイもまた、まるでエクセレワンが親の敵であるかのように、獰猛な表情を浮かべた。
「エクセレワン・オウストラル。お前の悪事もここまでだ」
精悍な顔つきで、グレイは懐から輝くピストルを取り出した。ホテルの従業員には似合わない得物だった。だからこそ、誰もが思った。この人は、ベルマンではない。
銃口を前にしても、愉快そうにエクセレワンが笑う。この男には、どんな窮地に追い込まれても、生き延びる自信があるようだ。
「できた執事だとは思っていたが、探偵の真似事か? 誰かに雇われ、スカウトを見越してホテルに潜入……僕を探っていたということかね。フフ、どこの秘密結社だ? 僕が各界と繋がっていることは知っているはずだ。僕を糾弾したところで、何の意味もないことも!」
やれやれと、肩をすくめてから、グレイはその名を口にした。
「我が主の名は『アレクサンドリナ・ヴィクトリア』」
「なん……だと?」
その名に、強がっていたエクセレワンが目を丸めた。
エクセレワンだけはでない。カイトも、セィルも、シャーロットも、チョチョも、別世界に放り込まれたような顔をしてしまった。これらは全て、舞台の上の出来事だと信じるほうが、気が楽だった。
「ヴィクトリア……。それ、女王様の名前なのです!」
一拍遅れて、チョチョが叫んだ。
「あなたは……何者なの?」
シャーロットすら推理を放棄する人物は、誰何に答えその名を告げる。
「私の名はHG。コードネームだがね」
「女王陛下の……
エクセレワンは明らかに狼狽する。大王国を纏める女王より上位の存在など人間社会には存在しない。そして、部下だと思い込んでいた男が、その手先だったのだ。
道理で、油断ならない気配を持つはずだ。カイトは納得した。
「私は彼女の目であり、耳である。彼らを解放しろ、エクセレワン」
「ぐっ……戯言を……僕は信じないぞ。お前たち、奴を殺せ!」
「気が狂ったか」
ギャングがHGに襲いかかるが、軍事探偵は躊躇なく撃鉄を鳴らす。呻き声と共に、屈強の男たちが地にひれ伏した。ほんの一瞬の出来事だった。
「安心しろ、麻酔銃だ。死にはしない」
煙を息で吹き飛ばしながら、HGが告げる。対峙するエクセレワンはスーツの中に隠していた暗器を取り出した。それは、串のような巨大な針だった。
「認めないぞ、こんな結末など! 僕が世界の中心になるんだ!」
エクセレワンが自棄気味に暗器を投擲。だが、気が動転していたからか、その軌道は大きく逸れ――満身創痍のカイトに向かっていく。
「う……?」
時が引き伸ばされ、瞳に凶刃が映り、
「カイトさんっ!」
その次の瞬間――チョチョのちゃんちゃんこが宙を舞った。
「チョチョ、チョチョ?」
ぼろぼろの体を動かしながら、カイトがチョチョの体を抱き、絶句。チョチョの胸元に、深々と暗器が突き刺さっていた。深い絶望の沼に、カイトは引き摺り込まれていく。
「な、なんてことを!」
「チョチョ! チョチョ!」
シャーロットとセィルがチョチョの名を必死になって叫ぶ。だが、チョチョは顔を蒼くさせ、答える気配を見せない。
「ひっ、し、しまった……」
垂涎の的だった座敷童子を自ら手にかけ、エクセレワンは腰を落としてしまった。
「エクセレワン!」
HGが叫び、腕を震わせているエクセレワンを拘束。ロンドンの闇と金を支配していた男は、呆気ない最後を迎えてしまった。
だが、そんな大捕り物など、もはやカイトにはどうでも良かった。
「チョチョ……チョチョ……しっかり……しろ……」
涙声をカイトは絞り出す。その力も徐々に失われていき、目も焦点が定まらない。
涙の味を噛み締めながら、カイトの意識は闇に落とされていった。
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