最初の試練
トラベルコートを身に包み、大きな鞄を抱えた旅行客のような装いだった。男は周囲を見渡したあと、立派な虎髭に縁取られた顔をカイトに向けて訊ねた。
「ここの室料はいくらだ?」
やはり、宿泊を希望の客だ。新生〈アステリズム〉最初の宿泊客ということになる。
「三シリングとなっています」
カイトは新装開店の際に価格改定された室料を伝えた。
「ずいぶんと安いな。まあ、いい。今日はここに泊まる。よろしく頼むな。とりあえず、酒ももらおうか」
「かしこまりました」
カイトはカウンターから宿帳を取り出し、名前を書かせた。
Eugene――ユージーンが彼の名前らしい。ユージーンはカウンター席に着き、葉巻を咥えてくつろぎ始める。
「どこからいらしたのですか?」
にこにこと愛嬌のある顔で、お盆を抱えたチョチョはユージーンに話しかけた。
「俺は……ライの方だ」
「なるほど。かつて海賊が栄えた町ですね。潮の香りがすると思いました。鉄道からは丘陵地帯の放牧地で戯れる子羊や馬の姿が見られて、和やかになりますよね」
イギリスの地理も勉強したらしいチョチョが、うっとりとした表情で言う。すると、ユージーンも相好を崩し、会話を弾ませる。
「俺は色んな宿を見て回るのが好きでね。今日も気まぐれでこのインに寄ったわけだ」
ユージーンは〈アステリズム〉の内部に視線を巡らせる。
「ふむ……」
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。料理とビールを注文してもいいか?」
「もちろんです」
子細にメニューを眺め、ユージーンが注文する。
「それじゃあ、ビール一パイントと鳥料理……雉肉のローストにするぜ」
「ああっと!」
びくりと肩を跳ね上げると、カイトは叫んだ。窓際の客の耳もぴくりと動いた気がした。
「どうした?」とユージーンは訝しげに眉を顰める。
「いえ、その……今、コックがお手洗いに行って帰って来ないのですよ」
カイトは嘘を唇からこぼすと、そのまま言葉を継いだ。
「まずは、ビールだけ出してもよろしいでしょうか?」
「そう言うことなら仕方ないな」とユージーンは葉巻を吸い、静かにビールを味わった。
やがて、窓際の席にいた憂鬱そうな客は、ビールで頭も頬も温めると、気をよくしたまま〈アステリズム〉から退店していった。カイトもチョチョも胸を撫で下ろす。
「どうしたんだ、お前ら。憑き物が落ちたような顔をして……」
「あっはい。コックが戻りました。今すぐ、鳥料理を提供できますよ」
ユージーンは咥えていた葉巻を灰皿に擦りつける。じりじりと音を立てながら消える火種の音を聞いていると、カイトの心胆に緊張が走った。ユージーンはきつくカイトを睨み、挑戦的な言葉を放つ。
「俺をこれだけ待たせたんだ。最高の鳥料理を出してくれないか。それも、この黒ビールに合うものをな」
憤然と腕を組み、ユージーンはこう付け加えた。
「このメニューにない、新しい鳥料理を作ってくれよ」
キッチンにて、カイトとチョチョはユージーンからの注文をシャーロットに伝えた。
「……新しい鳥料理?」
包丁を持った手を休めて、シャーロットは反芻する。調理台の上には、捌き終えた雉の姿があった。
「待たせてしまって不興を買ったみたいだ。だけど、チョチョの言うおもてなしを達成させるためには、期待に応えてやってやるしかない」
下手な行動をしてしまえば油に火を注ぐ結果となってしまう。これは新生〈アステリズム〉最初の試練のように思えた。こんなとき、ジョージならどうしただろう。誠実に、リクエストに応え、客を満足させていただろうか。
「シャーロット、おまえの知識を活かして、料理を作ってくれないか」
「急に言われても……。セィルは何か知らない?」
「う……」と普段は饒舌なセィルもたじろいでしまう。
いや、無口になってしまったのはセィルだけではない。
「チョチョ?」
あれこれ指導していたクレバーな座敷童子の声が止んだことに気付いたカイトが、その顔を覗き込む。
「うう、お客さんの求めるものを出さないと。求めるもの……」
チョチョの様子が一変していた。顔は蒼褪め、着物の帯を抓んでもじもじしては、何かをぶつぶつ言っている。
「こどだぁこどだぁ……めぐせぇどころを見られてしまう。けねなチョチョだど思われて、めぐせぇ……せずないよぅ……」
しどろもどろな声は日本語の上に訛っていて、何を言っているのかさっぱりわからなかった。ただ、ひどく落ち込み、弱音を吐いていることだけは伝わる。さらには、あの心を射抜くような魅力のある瞳も、渦のようにぐるぐると回してしまっていた。
「チョチョ……おまえ、もしかして……」
しっかり者だと思っていたチョチョ。何でも完璧にこなすと思っていたチョチョ。まるで教師のように、経営について語ってくれていた座敷童子が、震えて小さくなっている。
〝――意外と打たれ弱いのか……?〟
強い責任感を持っているかのように見えたが、その自信に満ちたおもてなしのために、他の客の怒りを買ってしまい、落ち込んだようだ。
「ああ、どうしましょうカイトさん!」
「ええっ?」
カイトはチョチョの弱点を察してしまった。こいつも、教科書通りにしか動けない不器用な人間――いや、座敷童子なのだと。
「おれが何か考える。チョチョはあの客の機嫌を取ってくれ。ジャグリングでも何でもいいから、もてなすんだ」
「わ、わかりました」
チョチョは頭を下げると、蝶の髪飾りを煌めかせてタップルームへと戻って行った。
〝――これは新生〈アステリズム〉最初の試練だ。どうする?〟
顎に手を添え、カイトは思案を始める。
〝――ここにある材料は、切り刻まれた雉の肉……これをどうにかするには……〟
額に汗を流しながら、アイデアをこねくり回していると、瞳の奥で光が走る。
「そうだ。思い……出したっ」
着想に襲来され、カイトはキッチンから飛び出ると、タップルームでユージーンの相手をしていたチョチョの元へと歩み寄った。
「カイトさん?」
「どうした? まさか、できないと言うのではないな?」
ぷかぷかと煙を吐きながら、ユージーンが鋭い眼差しを向ける。それでも、カイトは怯まない。もう、何をすべきかは決まったのだ。
「いえ、材料がここにあったので取りに来たのです」
カイトはそう言うと、チョチョの濡鴉色の髪に挿されている蝶に手を伸ばした。
「な、何をするのです?」
「これを借りるぞ、チョチョ」
蝶の髪飾り――簪を引き抜くと、チョチョの纏まっていた髪の一部が解けて長髪と合流する。カイトの行動に、チョチョは目を丸くして呆けていた。
「簪を……?」
そのままキッチンの調理台に戻ったカイトは、簪をセィルに差し出した。
「セィル、おまえの力でこれを洗ってくれ。煌めくほどにな」
「わ、わかった……のだ! 我がバンシーの力で耀かせて見せよう!」
手から清めの水をシンクに向けて流し、バンシーは簪を洗い始める。
「カイト、説明して。これで何をするっていうの?」
「まあ、見てなって」
探偵でも不可解な行動だと思われたようだが、カイトはそのまま作業を続ける。カイトは簪をセィルから受け取ると、シャーロットが切り刻んでいた雉の肉片を一つ一つ刺し始めた。
「これでよし。あとは焼いて……」
開放式オーブンの火でカイトは肉付き簪を焙る。しばらくすると、焦げ目がつき、仄かに香ばしい匂いがキッチンに充満した。カイトはさらに塩を幾つかまぶしながら、焼き上げる。
「これで……できた。チョチョ、給仕してくれっ」
看板娘兼座敷童子を呼ぶと、緊迫した面持ちのチョチョがキッチンに舞い込んでくる。
「これは……!」
チョチョは自身の簪を利用してできあがった料理に目を瞬かせたあと、「よごじゃます!」と得心し頷くのだった。
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