「この店は最低です」
客は五フィート(約百五十二センチメートル)ほどの身長の少女だった。
〝――外国人? 清国人か?〟
腰にまで届く髪は濡鴉色。前髪は切り揃えられており、後頭部にはアクセントとして、蝶の形をした髪飾りが添えられている。弓の形をした眉の下には大きな瞳がくりくりとしていた。ビスクドールと見間違うような白い肌を包み込むのは、着物だった。カイトも往来で見かけたことがある、東洋の服だ。桃色を基調とし、ところどころに花の模様が彩られている。さらに、少女は着物の上に真っ赤な羽織のようなものを纏っていた。履いているのはブーツではなく、ゾウリだ。
彼女はブリキのトランクを掲げ、じーっとカイトの顔を見つめ、
「こんばんは。〈アステリズム〉という店はここで間違いないのですね?」
少女が口を開くと、流暢な英語が飛び出した。言葉が通じ内心ほっとする。
「ああ、そうだ。それで、注文は? それとも宿泊? 室料は五シリング(約八千五百円。横浜スカイホテルの一泊料金と大体同じ)だ」
「そうですね。チョチョは長旅で疲れましたし、お腹と背中が膠でくっついてしまいました。『まず』はご飯にしますね」
チョチョ――というのが彼女の名前らしい。それにしても奇妙な物言いだ。まるで、段取りがあるかのようだった。しかし、待望の客なのだ。詮索は置いといて、カイトは接客を続ける。
チョチョはカウンターににじり寄ると、壁のメニューに目を通した。にこにこと微笑みながら席に座る。
「では、肉料理……ローストチキンをお願いします」
「ああ、すまん。材料切れで作れないんだ」
「チョチョは魚料理が好きなのです。ヒラメのフライはできますか?」
「すまん。それも……諸事情で作れない」
ヒラメを含め、カイトが焼き焦がした魚の数は手足を全部入れても数え切れない。
「……何があるんですか?」
微笑の顔に険を少し混ぜながら、チョチョが尋ねた。
「ソーセージアンドマッシュと、酒類各種。だが、きみはビールが飲めるのか?」
チョチョは少し目を細め、嘆息すると、
「とりあえず、水をください」
「ああ、わかった。まあ、ゆっくりしてくれ」
コップに飲料用の水を注ぎ、テーブルにそっと置いた。チョチョは辺りを見回すと、
「『繁盛』していますね。チョチョを含めて二人も客がいます」
イヤミか、とカイトは心の中で叫んだ。
「……飲まないのか?」
チョチョは水を頼んだものの、まったく手を付ける様子がなかった。異邦人は深く苦り切った溜息を吐いたあと、まさに矢を放たんとする弓弦のように眉根を引き締めた。
「飲めるような水に見えたのですか? 『カイトさん』」
カイトがぐっと拳を丸め、こめかみをぴくぴくと動かしながらチョチョを見つめた。
「チョチョは確かに聞いたのです。この店は〈アステリズム〉だと。ジョージさんの経営する、ロンドンでも名のある旅籠だと。しかし、チョチョの目が曇ったのでなければ、ここは到底店と呼ばれる場所ではないのです」
穏やかな口調だが、言葉にはそれぞれ毒が盛られていた。カイトは思わずたじろぐ。この異邦人は、カイトやジョージのことを良く知っているようだ。
「店は暗い、床はぎしぎしと軋む……。料理を食べるときは、店の雰囲気も楽しむものなのですよ。あなたは洞窟の中で食事を楽しめますか?」
「う……」
「何より店員に愛想がありません」
チョチョは曇った瞳をコップに向け、薔薇よりも鋭い棘のある言葉を紡ぐ。
「このコップ、カビが浮いているのが見えなかったのですか? 清掃をおろそかにしている何よりの証拠なのですよ。こんなやばずげー(不潔)な旅籠は初めてです。どうして経営しているのか不思議なくらいなのです」
固い光を宿した瞳でカイトを見上げ、止めと言わんばかりに告げた。
「この店は最低です」
「おまえ、喧嘩を売りに来たのか!」
叱責を受け、いきり立ったカイトがチョチョに詰め寄ったときだった。
「ぐ……?」
暴虐的な衝動に包まれた体が、ぴくりとも動かなくなってしまったのだった。
「最低とは評価しすぎでした。客に暴力を振るうなど論外なのです」
〝――体が……動かない?〟
不可思議な現象により、頬に一筋の汗が流星のように駆けた。目の前にいる少女が超人的な力を持っていることは間違いない。何者だ。おれを陥れるために現れたブードゥーの魔術師かと思案を巡らせ、否応なしに鼓動が加速する。
だが――チョチョ自身から敵意は感じられなかった。ただ本当に、暴力に走ろうとしたカイトを宥めただけのようだったのだ。
「だからこそ、やりがいはあるのですけどね」
チョチョは妖艶に笑みを浮かべた。
「あなた、何者なの? ただの客じゃないわね」
静観していたシャーロットも見ていられなくなったのか、席を立つと二人に歩み寄る。
「ええ、客ではないのです。失礼ながら、少し試させてもらいましたのですよ」
チョチョは立ち上がると、背筋をしゃんと伸ばす。続いて、まるで舞台役者のようにその場でくるくると着物を翻し、
「生まれ知らず親知らず、日本の岩手は遠野育ちの、チョチョという座敷童子でございます。趣味は枕弄り、特技は金縛り。あ、今後ともよしなに!」
それが自己紹介と気付いたのは、〈アステリズム〉の空気が凍り付いてから五秒後のことだった。そして、カイトの身動ぎできなかった体にも自由が戻る。チョチョいわく得意の術――金縛りが解けたのだ。
「ザシキ……ワラシ……?」
カイトに熱が戻ったあと、その言葉が出た。聞いたことのない単語を捕まえると、隣の少女に投げ渡す。
「って何だ? 知っているか、シャーロット」
「さあ……そういう職業なのかしら」
探偵(無職)のシャーロットでさえ、完璧超人の博覧強記というわけではない。眉に皺を刻んで、呆気に取られたような顔のチョチョを眺めた。
「じゃじゃじゃー? 座敷童子ってそんなに知名度のない精霊なのですかっ!」
「精霊? おまえがか? どう見ても、普通の女の子だしなぁ」
「こほん」とチョチョは可愛らしく空咳を吐き。
「えと、ですね。座敷童子と言うのは、家に住みついて、幸福を与えたりするありがた~い守護霊的存在なのですよ。チョチョはその一人。このように色白な座敷童子はチョウピラコとも言われますよ。以上、豆知識でした」
ほんの少し膨らんだ胸を反らして、チョチョは自慢げに座敷童子について語る。
「ふうん、そのザシキワラシのチョチョさんが、この店に何の用だ? 試すってのはどういう意味だったんだ?」
「それはチョチョもまた、遠野で旅籠を営む同業者だったからなのです」
「チョチョが……同業者?」
先程の熱弁が蘇る。確かに、指摘の数々は素人の目線ではなかったように思えた。チョチョもまた宿泊施設を預かり、責任を持って経営していた人物だったのだ。なぜその同業者が、はるばるイギリスのロンドンまで来たのか。その疑問の正体はチョチョ自身の口から露となった。
「そして、ジョージさんの遺言の通りに、チョチョがこの店に来たのですよ」
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