ザシキワラシ イン ロンドン

アルキメイトツカサ

序章 我が喜びは東方にあり

「倫敦ザシキワラシ」序曲

 ヴィクトリア女王が統治する北欧の島国――イギリス。

 乳白色の霧に包まれた街――ロンドン。


 道脇に兵隊のように等間隔に立つガス灯は、白の世界を拒絶するかのように朧に輝いていた。幻想的でありながら、どこか死後の世界のような不安さも抱かせる光景である。

 そのロンドンのブルームズベリー区に酒場兼宿屋――イン〈アステリズム〉があった。かつての中流階級の邸宅を改装したこともあり、豪奢なレンガ造りのインだ。

 カイト・ストーンズリバーの頭の中も、外の世界に負けないように、霧で埋め尽くされていた。


「客が来ない……ああ客が来ない、客が来ない……」


 茶髪を掻き毟りながら、カイトは何百回目にもなるであろう溜息を吐いていた。暖炉に火を点けているのに、どこか寒々しさを感じるのは気温のせいではない。


 彼が身に纏っているのは白いベストと黒いズボン、丈の長いエプロン。カイトは十七歳という若さでありながら、このインの亭主ランドロードを担う少年であった。むろん、この大不況の時代に彼一人の力で店を構えることなど夢のまた夢――

 そうなった経緯も当然ある。


 一か月前、一人の男がロンドンの街から天国へと旅立った。

 その男は優秀な亭主であり、料理人でもあった。


〈アステリズム〉の先代亭主ジョージ・ストーンズリバー。馬車事故で両親を失ったカイトのただ一人の家族であった。ジョージは人望が厚く、ロンドンの誰からも愛されていた。この〈アステリズム〉も繁盛しており、テーブルひしめくタップルームでは労働者たちの笑い声が止まない日はなかった。

 にこやかに酔客の相手をするジョージ。

 的確に従業員に指示を飛ばすジョージ。

 カイトはそんな祖父の姿を憧憬の瞳で記憶していた。いつか、祖父のような男になれると信じて、幼少時代を過ごしたのだった。

 そして、ジョージが流行病で他界し、「遺言」により、カイトはジョージから〈アステリズム〉の亭主に任命された。祖父を失った寂しさを誤魔化すかのように、カイトは胸を弾ませ、インの経営に身も魂も心も捧げるつもりで営業を始めた。


 だが、カイトを待っていたのは厳しい現実だった。

 ジョージを失った途端、〈アステリズム〉から客足は瞬く間に遠のいてしまったのだ。いなくなったのは客だけではない。四人いた従業員は「母の世話をするため田舎に帰る」「上流貴族の家でフットマンに雇われた」「これからの時代はハチミツだ」などいい加減な理由を付けてそれぞれ辞めてしまった。もう一人の従業員は何も言わずに〈アステリズム〉からいなくなり、後日別のサルーンで働いている姿を見て気まずくなったことをカイトは覚えている。

 畢竟――カイトはジョージの代わりにはなれなかった。ただ、亭主という肩書きが呪いのようにカイトの胸を締め付ける。貯蓄も徐々に減っていき、今は従業員を雇う余裕もなくなってしまった。


「ああもうっ! おれはどうすればいいんだっ」


 立ち上がったカイトはカウンターの上に雑然と置かれていたダーツの矢を掴むと、壁に掛けられたダーツボードへ向けて自棄気味に投げた。陰湿な空気を穿ちながら、矢は一直線に的に向かい――アウトボード大外れ。壁に当たると、煙で息絶えた羽虫のように墜落する。まるでカイト自身を暗示しているかのようだった。


 そのとき、憮然とした溜息が耳に届いた。


「独り言くらい心の中でやりなさい。気が散るし、酸素も無駄になるじゃない」


 ぴしりと声が飛び、カイトは身をすくませた。目を向けると、窓際のテーブル席に一人の少女が頬杖をついて座っている。小学校のときから付き合いのある彼女は、エメラルドのような凛とした瞳を研磨し、カイトを睨んでいた。


「シャーロット、おまえもせめて何か注文してくれよ」


 シャーロットと呼ばれた少女は髪をかき上げ、忌々しく呟く。


「聞こえなかったの? 読書の邪魔だから、静かにしてって言っているの」


 インは普通の料亭とは違い自由が約束されている。情報交換や、トイレを借りるために利用する人もいるほどだ。シャーロットもまた、そのうちの一人だ。挨拶もなく〈アステリズム〉に入り込んでは、入り口近くに置かれているタイムズやストランドといった新聞・マガジンを手に取り、定位置で読む。いわく、この静寂な店内は落ち着き、読書に最適らしい。もちろん、何の利益にもならないのでカイトはシャーロットを客とは数えていなかった。


「やっぱり、おまえも貧乏なのか?」


 逆さにしてもビスケットの欠片も出てこないような女だが、カイトは念のため尋ねた。


「失礼ね。あたしは『探偵』よ。昨日もキラリと事件を次々と解決したところなの」

「ほう、どんな大事件だったんだよ」

「いなくなった猫を捜したり、キッチンメイドとして手伝ったり、大変だったんだから」

「そうか、それでタイムズの求人情報を読んでいるんだな」

「そうそう。家庭教師(がヴァネス)は給料もそれなりで、あたしの知識も活かせて最適かも……って、ち、違うわ!」


 要するに、シャーロットは自称探偵の無職である。


「探偵なんて流行っているのはフィクションの中だけだ。いい加減、夢から覚めたらどうだ」


 探偵としての能力の高さはカイトも評価している。しかし、悲しいことにその能力に見合う事件がこのロンドンでは起こらない。発生しても相手にされないのが現実だった。五年前にイーストエンドを震撼させた切り裂き魔の事件も、シャーロットは子供だからという理由で警視庁(ヤード)に追い返された過去がある。


「あたしはシャーロットよ。ドイルの主人公と似た名前だし、これは天命だったのよ」

「イギリス人女性のよくある名前上位のくせに威張っているんじゃねえよ」

「な、なんですってぇ?」


 二人が発情した猫のように口論を続けているときだった。

 店内に死神の手のように冷たい夜風が入り込んで来たと思ったときには、ぎしっと床の鳴る音が耳に届き、すでに客が一人カイトの背後に立っていた。


「ほら、カイト待望のお客さんよ。相手してやりなさい」


 はっとしてカイトは振り向く。口論に熱中して扉の鐘の音に気付かなかったようだ。だが、シャーロットの言う通り、熱烈歓迎すべき〈アステリズム〉の客だ。シャーロットはカイトが接客を始めるのを確認すると、再び読書に興じ始めた。


「い、いらっしゃいませ」


 カイトが声をかけると、客がにこりと微笑む。目が合い、カイトはごくりと唾を飲み込んだ。

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