遺言

「爺さんの遺言? どういうことだ?」


 なぜ、遺言が孫だけではなく、異国の精霊にまで及んでいるのか。疑問符を浮かべると、チョチョが答える。


「ええ、ジョージさんが遠野へ訪れたときに、自分も旅籠を経営していると聞きました。そして、意気投合したチョチョたちは話が膨らみ、将来的な話にまで……」

「あの爺さんが、こんな少女に手を出していたなんて……知らなかった……」

「いや、そんないやらしい話ではなく……。ジョージさんは言っていました。『わしにもお前さんのような年の孫がおる。もし、わしに万が一のことがあったときは世話をしてくれぬか』と!」

「いや、おまえの作り話じゃないのか? そんなの、聞いていない!」


 店の沽券に関わる問題だ。不服を露に語気を強めて否定するが、チョチョは想定内と言わんばかりに、言葉を継いだ。


「動かぬ証拠があります。ジョージさんの遺言状はありますか?」

「もちろん、それがないとおれがこの店の亭主だって疑われてしまうからな」


 カイトはカウンターの引き出しに仕舞っていた遺言状を、シェイクスピアの初版を扱うように丁寧に取り出し、チョチョに見せつけた。マガジンサイズの小さな白紙の上部に、その一文は綴られていた。


「『我が孫カイトを〈アステリズム〉の亭主に任命する』……これだけだ。おまえが来るなんて、どこにも書いてないぞ」

「貸してください」


 そう言うと、チョチョは強引にカイトの手から遺言状を奪い取り、暖炉の傍まで移動。


「待て! 燃やす気か!」


 冗談ではないと、カイトがチョチョの肩を掴もうとしたとき、


「ふふ、実はこれは『炙り出し』なのです」

 遺言状には新たな字が浮かび上がっていた。見覚えのある、ジョージの筆跡で――


〝――カイト! おまえがこれを読んでいるとき、わしはもうこの世にはいないだろう……って遺書だから当然だな! ああ、すまん、一度書いてみたかっただけだ。わしがいなくなって寂しいだろう? 〈アステリズム〉の経営も大変だろう? だが、安心しろ。わしが日本で知り合ったチョチョが、おまえの傍にいるはずだ。彼女の力は必ずおまえの助けになる。わしが信じたチョチョを信じ、〈アステリズム〉をロンドン一のインにするのだ。では、わしはマリア婆さんと天国でデートの予定だ。あとはよろしくな!〟

 

「…………」


 カイトは顔面蒼白。ぷるぷると目と手を震わせた。感心するように、シャーロットが息をこぼす。


「まあ、ずいぶんと手の込んだ遺言状ね。チョチョはこのことを知っていたの?」

「当然なのです。炙り出しはチョチョがジョージさんに教えた遊びなのですから」

「ああ! やけに酒臭いと思ったよ! 余白が広すぎると思ったよ! あの爺さん! こんなのを仕込んでいたなんて!」

「ということで、このチョチョがカイトさんのお手伝いにやって来たのです」


 改まって、チョチョが長い髪を垂らしてお辞儀をした。


「おまえが……〈アステリズム〉の従業員に……?」


 力になってくれるのはありがたい。だが、根本的に納得のできないことが引っ掛かっていた。


「だけどよ、おまえがいたのは日本の旅館なんだろう? ここは酒場兼宿屋のインだ。同じようで、全然違う施設なんだぞ。それでも、おまえが力になれるのか?」

「心がある限り、『おもてなし』は万国共通ですよ」


 にっこりと会心の笑みを浮かべ、得意気に頷くチョチョ。


〝――オモテナシ〟


 心臓をどくんと打たせる力を持った言葉の響きだった。そして、長らく感じたことのない母性を纏ったチョチョの姿が相まって、カイトは頬を重くしてしまう。 

 チョチョは柔和な笑みの中に、慈しみのようなものを込めて訊く。


「カイトさん。あなたは今、幸福ですか?」

「おれは……」


 意地悪な質問だ。この店の状況を見て、幸福と答えられるものなら頭がお花畑だ。

 幸福とは、欲が満たされたとき初めて訪れるものである。カイトの欲――それはこの〈アステリズム〉をかつてのような活気溢れる店にしたいという願望だ。

 カイトは唇を引き結び、じっとチョチョを見つめた。


「チョチョは、皆さんに幸福をおすそ分けするために、来たのです。カイトさん、一緒に働きましょう。この旅籠……いえ、イン〈アステリズム〉で」


 声には期待と希望が潜んでいた。強い信念を宿した瞳が煌々と輝く。見つめていると吸い込まれそうな、夜天の色。

 カイトはチョチョから一瞬目を逸らし、渋面で答えた。


「爺さんの信じた人なら、おれも信じられる。さっきの言葉の数々が……効いたしな。それに、爺さんが言っていた。人の好意を無駄にするやつは一生後悔するって」

「では……」

「わかった、チョチョ。一緒に、この〈アステリズム〉を再興しよう。爺さんのときみたいな活気を取り戻すんだ。いや、それ以上の、素晴らしいインを作り上げる!」

「よごじゃます(すばらしい)!」


 遺言によって導かれた東方の使者が、無邪気に笑った。人を和ませる力を持った笑顔だった。

 早速、チョチョは従業員として顔を引き締めると、カイトに問いかけた。


「さて……カイトさん。一流の旅館に最低限必要な人材が何か知っていますか?」


 自流の経営論のようだ。カイトは腕を組んで思案顔。


「さあ? 一人は支配人だよな。……ううむ」

「女将と仲居と板前です」

「ナカイってのはなんだ?」

「給仕や接待をする人のことですよ。そう、このチョチョのことです」


 着物の裾を翻し、麗らかな仕草でチョチョがお辞儀する。


「……ふうん。フランス料理店のギャルソンみたいなものか。それじゃあ、板前ってのは料理人のことだな」

「はい、この〈アステリズム〉……チョチョとカイトさんの二人で切り盛りするのは困難だと思います。専門の料理人も必要なのですよ」

「爺さんの時代は、爺さん自身が料理人だったし、アシスタントの従業員もいたからな」


 瞼を閉じれば甦る記憶。キッチンでは熱の篭った料理の数々が、ジョージの指示により作り上げられていたものだ。イギリスの料理はまずいものだと一般的には言われている。産業革命の弊害として、イギリス料理は進化を止めてしまい、失われてしまった伝統料理も数多くある。何より、ロンドンには中華料理店やフランス料理店が数多くあるため、美味を求めたければそちらの門を叩けばいいだけなのだ。そんなロンドンの中で、フランスで修業を積んだシェフでもないジョージは研鑽を重ね、料理を作り続けていた。その後継者が、〈アステリズム〉には必要不可欠――


「コック……かぁ。しかし、雇うにも金が……」

「チョチョに持ち合わせがありますので、しばらくは貸しますよ」


 チョチョはブリキのトランクを一瞥したあと、目配せをした。


「そっか、それは助かる」


 盛り上がる二人を尻目に、


「やれやれ、これであたしもこの店を卒業か」


 不服そうに、シャーロットが溜息を吐いた。チョチョが加わることで、この店が騒々しくなることを予見したようだった。そうなれば、今までのように読書に徹することも叶わなくなってしまう。


「そうだ、シャーロット」


 店から出ようとするシャーロットを、カイトが引きとめた。


「な、何よ」虚を衝かれたように、シャーロットはびくっと肩を震わせる。


「おまえも女なら料理くらい作れるだろう。さっき、キッチンメイドをやったって言っていたし」

「確かに料理を作るくらい朝飯前で夕食後よ……って、まさか!」


 推理力の高さがアダとなり、シャーロットは頬を引き攣らせた。


「料理人ならここにいたぞ、チョチョ」

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