ロンドンの歩き方
〈アステリズム〉を離れ、カイトはチョチョを連れてロンドン市内の案内を始める。
「さて行くか。今日もいい天気だ」
「これが、いい天気ですか?」
片眉を跳ね上げ、訝しげにチョチョは空を見上げる。雲が多く、遠くの工場からは常に煙が漂っていた。これぞ産業革命がもたらした副産物だ。
「日本ではもっと抜けるような青ですよ。カイトさんには『日本晴れ』を見てほしいものですね」
「……そうか。今度写真で見せてくれよ」
からかうように、カイトはふてぶてしく笑って答えた。今の写真技術では無理な話に「むう」と唸り、チョチョは拗ねたように口を尖らせる。
カイトは簡単にロンドンの地理をチョチョに教えながら、テオーバルズロードをしばらく歩き、スミスフィールドマーケットに到着した。ここは古くから家畜の肉などが売買されている市場である。今日も多くの商人や仲介人、客でごった返しており、坩堝のようであった。
チョチョは目を点にして、この戦場の如き光景を眺めていた。
「じゃじゃじゃー……まるでお祭りですね」
「これがロンドン名物だ。そこかしこで『安い、安い』と叫んでいるのは
「兄ちゃん、雉を買っていかないかい? 一ダース一シリング五ペンスだ」
禿頭の初老の男が手を鳴らし、箱に詰められた雉をカイトに注目させた。二フィートほどの大きさのキジが、狩られた姿のままで眠っている。
カイトは頭の中の〈アステリズム〉の帳簿と相談に入り、悩んだ。今は経営も火の車。できるだけ安く食材を仕入れなければならない。
そこへ、鶴の一声のように別の呼子商人の声がカイトの耳朶を打った。
「待て待て兄ちゃん! 俺の話を聞いてくれ! 絶対損はさせないぞ!」
はす向かいにシートを広げ座っていた男だ。目深に帽子を被り、目を光らせている。
「へへ、俺の知り合いの猟師が狩ってきた雉でい。一ダースなんと八ペンスで売るよ」
「お、こっちのほうが安いな」
「いえ、待ってくださいよ、カイトさん」
カイトの服の袖をチョチョの手が掴んだ。きっと鋭い眼差しを向けると、
「さっきの雉肉を買うのです」
「なんでだ。普通安いほうを買うに決まっているだろう」
「品質が悪いと思うのですよ。匂いもきつく、羽の色も悪い。きっと中の肉も旨味が違っています。こんなのをお客さんに出すわけにはいけません」
胡散臭いと言いたげにカイトは鼻の頭を掻いた。
「おれには違いがわからんが……」
「カイトさん。チョチョたちが目指しているのは、立派なインなのです。手を抜いてはいけないのですよ」
自分を信じろと言外に含んだように、チョチョはカイトに視線を送る。それでも、カイトは口を堅く結び、譲る気配を見せなかった。チョチョは小さく息を吐く。
「どうしても納得できないのならいいですよ。チョチョが足りない分を出しますので」
「ああ。じゃあそうしよう。おれの金が減らないなら結構だ」苦笑いを浮かべて、なるたけ残念そうにカイトは告げる。「悪いな、おやじ。また今度頼む」
「へっ……」と鼻下を掻き、帽子の商人は悔しがる素振りを見せた。
一シリング五ペンスの雉肉を〈アステリズム〉に配達するよう手配をしたあと、カイトたちはさらに東に進み、ビリンズゲートに到着。こちらは魚市場であり、新鮮な海の幸が多く並んでいた。ニシンやタラ、ヒラメにカレイと牡蠣を買い付け、これで料理に必要な最低限の食材は揃ったこととなった。
テムズ川にかかるロンドン橋を渡り南下。次に訪れたのはニュー・カットであった。こちらは、ありとあらゆる物が一ペニーで売られている市場である。
「やあ、兄さん」
ここでも、歩くだけで声をかけられる。カイトが振り向くと、不敵に笑う商人が声を弾ませた。
「変わった東洋人を連れているな。何ポンドだったんだ?」
チョチョはぽかんと呆けていたが、一瞬のうちに口角を上げると、殊更甘い声で、
「笑顔、〇ペニーです」
と答えた。声をかけた商人のほうが黙ってしまう威力の笑顔だった。
好機と見たカイトがチョチョの服を掴み、その場からスタコラサッサと離れる。
「じゃじゃじゃー……。チョチョは売り物ではないのですよ」
ぷくうと頬を膨らませるチョチョ。その瞳は冷たく冴えていた。
「機転が利いて良かったな。ここは『何でも』売っている。人もだ」
カイトが交差点の角を指差した。
「ほら、あそこで花を売っている女の子がいるだろう。やけに肌を露出していると思わないか。あれは体も売っている売り子だ」
十二歳程度の少女が、籠一杯に綺麗な花を入れ、道行く人々に声をかけている。衣服こそ汚れが目立っているものの、そのスカート丈は短く、太腿が露になっていた。
「不潔です。不衛生です。ここはチョチョの……嫌いな場所なのです」
「けどよ、安く手に入るのは確かなんだ。利用するほかないぜ」
「…………」
しゅんと目を伏せるチョチョ。カイトは熱の篭った息を吐くと、うなだれた。
「気分を悪くしたなら謝るよ。けど、こうしてこのロンドンの金は回っているんだ。割り切らないと、この街で生きていけないぜ」
硬い声をカイトは漏らした。
「わかりましたよ。ロンドンの景気を良くするためにも、チョチョはがんばりますので」
食器や小物などをいくつか買い、カイトたちは〈アステリズム〉への帰路に就く。シャーロットはちゃんと清掃を続けているだろうかと思いながら、店の前にまで行くと、
「ん?」
カイトの視線が止まった。
四・五フィートほどの、チョチョよりもさらに小さい背丈の少女が、胸元で手を合わせて、〈アステリズム〉の店内を覗いていたのだ。絹とレースをあしらったグレーのドレスに、ピナフォアを着用。その小躯を包んだ衣装はメイドに似ていた。くしゃくしゃにもつれたプラチナブロンドの髪が腰まで届き、その天外めいた姿は人形が巨大化したと言ったほうが現実的かもしれない。
「うわあ、めんこい子ですね。何をしているのでしょう」
「さあ、迷子かもしれないな」
髪を揺らして挙動不審の少女に向けてカイトは声をかける。
「きみ、おれの店に何か用か?」
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