第一章 逆境が人に与えるものこそ美しい

新しい朝

 翌日、奇妙な束縛感と共にカイトは目が覚めた。体を動かすことができず、呻く。


「ぐ……」


 重い瞼をこじ開けると、目の前に一人の少女が佇んでいた。


「おはようございます、カイトさん」


〈アステリズム〉の新入り、座敷童子のチョチョが目を光らせて頭を下げる。


「チョチョ……これは……どういうことだ……」

「チョチョは座敷童子ですから。定期的に金縛りをしないと気が済まないのです。それともう一つ。規則正しい生活を心掛けるために、こうして毎日カイトさんの目を覚まさせることにしたのです」

「こ、こんな起こし方があるかっ! 早くこの術を解けっ!」


 袖を口元にあてて微笑みながら、チョチョはカイトへの金縛りを解いた。


「さあっ、朝餉もできていますよ。一階へ下りてきてください」

「なに……」


 勝手に朝食まで作られ、カイトは目を瞬かせた。言われるがまま、階段を下りてタップルームにまで行くと、テーブルの上には湯気を発している料理の姿があった。玉子焼きとソーセージ、焼かれたパンが皿の上に置かれている。

 ほう、とカイトは感嘆の息を吐く。


「チョチョ、オーブンコンロの使い方も知っていたのか」

「まあ、釜と似たようなものなのでだいたい勘で使いました。オムレツ、スクランブル、ポーチド、フライド、ボイルドなんでもこいです」

「全部卵料理じゃないか……」


 席に着き、カイトがパンに手を伸ばそうとすると――小気味良く打擲音が響いた。


「いってえ、何するんだ」

「待ってください、『いただきます』って言わないと」

「はあ? 誰に向かって言うんだ」


 腹立たしげに舌打ちしたカイトを、チョチョは眉に小皺を寄せたあと見据えた。


「食材と神様に感謝して食べるんですよ」

「……それも日本の文化? ここはイギリスだってのに。くそっ、ザシキワラシめ」

「そんな悪態をつけば、心も汚くなりますよ」

「はいはい、『いただきます』だな」

「はいは一回」

「…………はい」


 昨晩は母性を感じたが、本当に母親役をやっているようだった。カイトは幼少期を懐かしみながら、チョチョの手料理を食べた。


「食べ終わったら、『ごちそうさま』です」

「……ごちそうさま」


 手を合わせて重く沈んだ声を出すと、チョチョは一言「お粗末」と告げたのだった。チョチョは器具を洗い場へと持っていく。カイトは蜘蛛の巣が張ってある天井を、憂いの瞳で見上げた。

 異国の精霊との同居生活は、早くも高波となりつつある。

 ぼうっとしていると、どたどたと足音を出しながら、チョチョが一枚の紙を持って来た。


「そうそう、洗い場募集の貼り紙も作っておきましたです」


 チョチョが書いた募集文をカイトは読み上げる。


「『洗い場担当募集! 人種、宗教問いません、誰でも歓迎!』……これで来てくれるとありがたいんだがな」


 ここまで条件を緩くして募集するのにも理由がある。洗い場は、一般には最も低級の労働場所だと考えられていたからだ。貴族の家に勤めるスカラリーメイドはその典型だ。スカラリーメイドはメイドの中でも序列が低く、ありとあらゆる雑用をこなす下っ端でもあった。


「皿洗いが趣味のような奇特なやつでもない限り……来てくれないと思うが……」

「何もやらないよりもマシですよ。はい、外へ行きましょう」


 ステップを踏みながら、チョチョは〈アステリズム〉の外の壁に、求人募集ポスターを貼りつけた。そして、目を瞑り手を合わせる。


「何をやっているんだ?」

「いい人と巡り合えるよう、祈っているのです。はい、カイトさんも真似してっ」


 言われるまま、カイトはまだ見ぬ〈アステリズム〉の洗い場担当へと想いを馳せた。


「おやおや、朝のお祈り? 十字を切らなくていいのかしらん?」


 馬車が忙しく走る往来の向こうから、自転車に乗った少女が声をかけた。卓越した技術で前輪を滑らせ、〈アステリズム〉の壁際に止める。


「あら、チャリンコのチャーリーさん。おはようございます」

「妙な呼び方をしないで。あたしはシャーロットよ!」


 声を荒げたが、チョチョはまったく怯まない。


「シャーロットの愛称はチャーリーと聞きました。そして、自転車はチャリンコです。ダブルネーミングというやつですよ」

「そう呼ばれたくて自転車を買ったわけじゃないのにっ」


 シャーロットは明後日の方向を向き、恨み節のようなものを口の中で転がして拗ねた。


「ああ、シャーロット。いいところに来た。おれは今からチョチョにロンドンの案内を兼ねて買い出ししてくるから、留守番と掃除を頼む」

「い、いきなり過酷な労働を強いてくるわね。給料はちゃあんと弾むんでしょうねっ」


 カイトは自転車女の目がソブリン金貨になっているのを幻視する。


「もちろんだ。頼むぜ、シャーロット」

 

ぐっと親指を立てると、シャーロットは勢いよく頷くのだった。

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