「最低と言えるうちは最低じゃない」
往来の人々に聞き込みをしながら、カイトはロンドンの街を疾走する。
「着物を来た女の子? さっきそこの公園に入っていったよ」
ジェントルからその証言を聞いたカイトは、息を切らしながら近くの公園に飛び込んだ。
緑の香りが心地よく、カイトの激情を少しずつ和らげていく。
「チョチョ……どこに……」
どこかのベンチで肩を落としているのか。
途方に暮れて歩いているのか。
そんな想像をしていたとき、カイトの瞳に着物の少女の姿が映った。
「チョチョ!」
宙を舞う複数の玉。白い手によって秩序と安定を与えられ、優雅に回転を続けている。その軌跡はまるでウロボロスのようであった。
「え……」
日本からの来訪者――座敷童子のチョチョはジャグリングをしていた。
大道芸人もメイクを落として逃げ出しそうな洗練された手際に、見惚れそうになってしまう。
「何をしている?」
「あ……カイトさん……」
カイトが声をかけると、宙を待っていた玉が次々とチョチョの手に収まった。
「これはですね……気分転換と肩こり解消に最適のお手玉なのです。ジャパニーズジャグリングなのですよ」
「気分転換……そうだ、チョチョ。さっきは……悪かった」
カイトは頭を下げ、心の底から詫びた。
「おれは誤解していた。おまえは、本当におれの店を良くするために努力していたのに……当たってしまって……」
「チョチョも……悪かったのですよ。カイトさんの言うことは間違っていなかったのです。少し、強引過ぎたかもしれません」
今のままじゃ駄目だとわかっていたのに、冷静に話し合うことができなかった。その今のままを終わらせるためにカイトはチョチョに頭を下げる。
「ごめん、チョチョ。〈アステリズム〉に戻って来てくれ」
「……最初から戻るつもりでしたよ」
お手玉を袖の下に隠し、チョチョはカイトに向き直る。ふうと大きく息を吐くと、右手の人差し指をカイトの鼻に向けて伸ばした。
「ですが、カイトさん。一つ言わせてください」
念を押すように、チョチョはカイトに顔を近付けて言う。
「〈アステリズム〉はカイトさんの店ではありません」
「何……」
「カイトさんと、チョチョたち。そして、お客さんたちの店なのです」
「あ……そう、だな……。おれ、大事なことをずっと見失っていたんだ。皆がいるから、〈アステリズム〉の経営が成り立つってこと……。おれ、ずっと爺さんばかり見ていたんだ。店全体のことも考えず、客の顔もロクに覚えない……駄目な亭主だった」
「その駄目な亭主を支えるのが、この仲居チョチョの役目なのです」
「うん……帰ろう、チョチョ。こうしている時間が惜しい」
カイトは手を差し伸ばす。
「はいっ」
花のような微笑みを目にし、鼻の奥がツンと痛む。
カイトはチョチョの手を引く。見た目は白い手だが、暖炉よりも温かく感じられた。
「お帰りなさいませ、亭主様」
メイドの経験が生きたのか、シャーロットは恭しくカイトたちを迎え入れた。その手に握られているのはモップ。水もすっかり引き、軋んでいた床は磨き抜かれていた。
「セィルの力も借りて、ここまで綺麗になったわよ」
「フフ、我の洗浄の力……思い知ったか!」
バンシーはプラチナブロンドの髪を揺らしながら、胸を昂然と反らして愉快に笑う。
〈アステリズム〉の陰湿だった雰囲気は一気に変貌。店の隅々までが煌めき、まるで光溢れる天界のようになったのだ。カイトは心の底から、天使のような女子へ感謝を捧げる。
「ありがとう、シャーロット、セィル。チョチョも戻って来た。ようやく、新生〈アステリズム〉が動き出せそうだ」
時はすでに夕刻。窓の外では労働者たちが往来を忙しなく歩いていた。誰も彼も疲れたような顔をして、休む場所を探しているようにも見える。
「では、いよいよチョチョたちの本領を発揮するときです」
柏手を打つように手を鳴らし、チョチョは気合を入れた。
「チョチョは旅籠を経営する以上、最高の『おもてなし』を与えなければなりません。レストランでも旅館でも、大事なのはまたお客さんに来てもらえるような店にしなければならないことです」
そう前置きしてから、チョチョはカイトに尋ねる。
「さて、カイトさん。『おもてなし』とは何のことだと思いますか?」
「何って。サービスのことだろう?」
そう答えると、チョチョは指を振って「ちっちっ」と舌を鳴らす。
「実は『おもてなし』は……奉仕に関する日本語の頭文字五つを並べた言葉なのです。『お』は、思いやりと驚き。これがおもてなしの基本です。『も』は物日。物日とは、祝日や祭日という意味です。つまり、お祭りの日であるかのようにお客さんに思わせるのです。『て』は提案と提供。『な』は……和やかでナイスな空間!」
聞き慣れた童謡を口遊むように、チョチョはすらすらと言葉を紡ぎご満悦。
しかし――
「ナイスって日本語じゃないわよね」と呆れてシャーロットがぼやく。
「う……」
「終焉の言葉――『し』は何なのだ?」と顔を顰めてセィルが訊いた。
チョチョは一瞬目を逸らすと、
「今度思いついたら言います」
舌をぺろりと出し、誤魔化す。カイトは肩をすくめたが、開店前の緊張した空気をほぐすムードメーカーとしては悪くないなと感じた。
「それで、チョチョ。おまえはその格好のまま接客するのか? せめてそのレッドハオリは脱いで、エプロンにしたらどうだ?」
「レッドハオリとは珍名な。これは『ちゃんちゃんこ』なのです」
「せめてそのチャンチャンコは脱いで、エプロンにしたらどうだ?」
「ご丁寧に訂正をありがとうございます。ですが、これはチョチョが座敷童子である何よりの証拠。アイデンティティーなのです。これがなければ、チョチョはただの女の子も同然なのですよ?」
チョチョが自慢の赤いちゃんちゃんこを指差しながら主張すると、カイトは尻込みしてしまった。
「わ、わかった。そのままでいてくれ、ザシキワラシさんよ」
「えと、そうです。続いて笑顔指導をします」
頬を緩ませて、座敷童子の仲居はカイトたち三人へ視線を注ぐ。
「では皆さん、チョチョに続いて『すき焼き』と言ってください」
「すきやきー?」と三人はコーラス隊のように声を揃えた。
「はい、皆さんいい笑顔になりました」
いわく、「き」と発音するとき、口の形は自然と笑顔のものとなるらしい。「すきやきー」「すきやきー」と、何かに憑りつかれたかのように四人は連呼を始めた。道行く人がこの光景を目にしてしまえば、何の宗教だと疑われそうである。
「フフ、まるで甘美なる禁呪のようだ。『すきやき』は奥が深い」
「愛嬌は人生の石鹸なのです。人間関係を綺麗にしてくれます。ですので、皆さんも笑顔を忘れずに、接客に励んでほしいのです」
なるほど、とカイトは納得する。ジョージもいつも、接客するときはもちろん、従業員に指示を出すときも笑っていたと思い出す。店を預かる者が笑わなければ、来店してくれた人々も楽しんでくれるはずがないのだ。カイトは窓に映った自分の顔を睨みながら「すきやきー」と繰り返す。
「で、なんで『すきやき』なんだ?」
「食べてみたいからです」
チョチョは唇にささやかな微笑みを湛える。
「さあ、亭主からも従業員に声をかけてやりなさいよ」
場が温まってきたところで、コックがカイトの脇腹に肘鉄を軽く浴びせた。
「ああ、そうだチョチョ。言ったよな。この店は最低だって」
神妙な顔でチョチョは頷く。
「『最低と言えるうちは最低じゃない』……シェイクスピアの言葉だ。意地を見せて、がんばるぞ、皆」
そして、ようやく〈アステリズム〉の本当の戦いが始まるのだ。
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