衝突
その事件が起きたのは、カイトが客室を一通り清掃し、休憩しようとタップルームに下りてきたときのことだった。
「ん?」
――びちゃり。カイトの足下から、そんな音が跳ねてきた。爪先から背筋にかけてぞっと冷たくなる。
「なんだよ、これは……」
床の上をたゆたう埃やゴミを目にして、カイトは絶句してしまった。足が冷たくなったのは比喩でも何でもない。タップルーム全域が浅瀬のように水で溢れていたのだ。水道管でも破裂したのかと思いきや――
「これで十分ですよ、セィルさん!」
と、はち切れそうな笑みを浮かべているチョチョの姿があった。注視すれば、セィルのバンシーの力を引き出させ、このタップルームを水浸しにしていたのだ。
「おい……何が十分なんだよ」
「ああ、カイトさん。客室の清掃は終わりましたか? 見てくださいよ、セィルさんのこの力。いやあ、本当に便利なのですよ」
「何が便利だっ!」
びちゃりびちゃりと足音を鳴らしながら、腹の底から声を絞り出し、怒鳴りつける。
「おれの……爺さんの大事な店を水浸しにして……」
チョチョの突拍子のない行動は、我慢の臨界点を突破していた。
「おまえは、〈アステリズム〉を荒しに来たんだ。何が幸せをもたらす精霊だ! ただの疫病神じゃないか!」
悪罵を耳に入れ、チョチョは身を震わせた。
「おお、落ち着いてよ。カイト亭主……」
「そうよ、カイト。ちゃんと話を――」
宥めようと、シャーロットとセィルが歩み寄るが、カイトは追い返すように手で払う。
「うるさい! おまえたちもチョチョの味方なのか?」
カイトが勢いよく指差すと、チョチョは唇を歪ませながら身をすくめた。着物に描かれた花も皺が寄せられ、萎んでいるように見えてしまう。
「人を金縛りにして起こす。理由を付けて高い肉を買おうとする。客室にケチをつけたかと思えば、あげくこの状態だ! おまえは……おれの店を滅茶苦茶にした!」
顔を赤くして、カイトはチョチョから受けた不平不満を列挙する。
「カイトさん――」
言葉を継がせまいと、カイトは射抜くようにチョチョを睨んだ。
「もういい黙れ! 爺さんの言葉を真に受けて、おれはどうかしていた。おまえなんか、信用するんじゃなかった! 今すぐこの〈アステリズム〉から、出て行け!」
激しい剣幕で迫り、語気も強くし言い結ぶ。チョチョの整った目鼻立ちは崩壊。悄然とした面持ちを見せて、
「……わかりました。出て行きますよ……」
肩を震わせると、沼に踏み入れたような声音で小さくそう呟いた。
「チョチョ!」
シャーロットが止めようとするが、チョチョは暗い顔のまま、〈アステリズム〉を飛び出していった。
神経をすり減らし、目を血走らせ、顔まで真っ赤に興奮したカイトはただ荒い息を吐き、「疫病神」の背中を忌々しく見つめただけだった。
「この世のタガが外されてしまった気分だ。これで何もかもやり直し……いや、マイナスからのスタートだ!」
「カイト、落ち着きなさい」
「亭主、すまぬ!」
「むぐっ?」
シャーロットが両手で、興奮していたカイトの肩を押さえつけ、さらにセィルがカイトの顔面に水を浴びせた。
「チョチョは……この店のことを思って、我の力を解放させたのだ」
「あなたの大好きなシェイクスピアの言葉で教えてあげるわ。『肥えた土ほど雑草がはびこるものだ』よ」
「どういうことだ……?」
シャーロットがその場で足踏みをしながらしみじみと言う。
「あなたも気になっていたでしょう。この店の床の軋む音。これはキクイムシやシロアリの被害に遭っていたからなのよ」
「なんだって?」
言われてからカイトは納得する。確かに、この床が軋むようになったのは、最近になってからだった。これも全て、カイトが床の手入れを怠たり、害虫を招いてしまったことによるもの。シャーロットは半眼でカイトを睨む。
「進行を止めるために、チョチョはセィルの水の力を使っていたのよ。バケツ数十杯分の水を浴びせて、害虫を溺れさせるためにね」
うんうんとセィルが小さく首を縦に振り続ける。
「そんな……」
「何も知らずにチョチョを責めたカイトも悪い。けど、カイトに相談せず独断で指示を出したチョチョも悪い。あたしはそう考えているけど、起きてしまったことは仕方ないわね」
カイトは丸めた拳をぶるぶると震わせる。
「どうするの亭主。このままだと、あなたも格好悪いんだけど」
亭主という響きが今になってより重く聞こえた。シャーロットとセィルの四つの瞳が、困惑するカイトを貫く。
「わかった……チョチョともう一度話をさせてもらう!」
カイトはその足で店を飛び出した。
大事な〈アステリズム〉の一員を連れ戻すために――
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