終章 座敷ワラシなりけりと思えり

チョチョ

 気がつけば、カイトは知らない世界に立っていた。ウサギを追っていたわけではないのに。見れば、自分の衣服も奇妙だ。トラベルコートを纏い、トランクを掲げていた。まるで、旅行中のように――


「どこだ、ここは……」


 見渡せど見渡せど、四方は緑の山に囲まれていた。カイトは天を仰ぐ。


「綺麗な空だ」


 空は抜けるような青。ロンドンではお目に掛かれないような色だった。雲一つない蒼穹を、鳥がV字状に群れを作って飛んでいる。人のいない世界。だが、誰かに見られているような気がする。木や、石や、大地に、何かが宿っているような気がする。それも、不思議と不気味とは思えない。

 カイトは歩いた。どこかへ行かなければならないような気がした。落ち葉を踏み締め、広い平野を、盆地を進む。

 その先でカイトを待っていたのは、一軒の建物。看板らしき物に、建物の名前が書いているようだが、イギリス人であるカイトには読めなかった。だからこそ、理解した。


「ここは……日本なのか?」


 戸惑っていると、建物の戸が開かれる。着物とちゃんちゃんこを身に纏った少女が顔を出し、恭しく頭を下げた。


「お待ちしておりました。カイト『様』。ようこそ、翠山荘へ」

「チョチョ?」


 口を衝いて、その名前が出た。〈アステリズム〉の仲居の名。亡き祖父ジョージの遺言に従い、ロンドンを訪問した座敷童子の名。氷のように固まる表情を溶かして、口を動かす。


「なんだ、どうなっているんだ?」

「案内します。お荷物をお持ちしますね」


 カイトの疑問を無視して、チョチョはしなやかな動作で「客」を案内する。カイトは仕方なく、チョチョの姿を追った。旅館に使われている独特の檜の柱が夕陽に照らされ、淡く輝いている。床板も綺麗に磨かれ、浮遊感を抱くほどだ。


「こちらがカイト様のお部屋。撫子の間です。どうぞ、おくつろぎください」


 そそっと扉をスライドさせ、チョチョは頭を下げる。

 中は、当然ながら和室だった。畳が八枚敷かれ、壁際には桐箪笥、中央には大きな座卓。その上の盆には急須や湯飲みが置かれていた。床の間には、筆で龍の絵が描かれた掛け軸。障子の向こうは縁側になっており、遠野の山々がその顔を夕焼けに染めている。


「…………」


 何とも言えない心地に、カイトは包まれた。既視感もわずかに浮かぶ。あの豪華な〈グランド・ポラリス〉のカシオペアに入室したときと同じ感覚だ。いや、派手な内装でないあたり、こちらのほうが落ち着けるかもしれない。

 立っていると、チョチョがカイトのコートをするりと脱がし、壁に掛けた。


「何かご不明な点がございましたら、何なりとご申し付けください」


 言いたいことはこの遠野の山と同じくらいあった。だが、なぜだか言葉が出ない。この「異世界」の空気に、圧倒されているからだろうか。

 仲居が扉の向こうに消えたあと、カイトはとりあえず座って、気持ちを整理する。

 しかし、何を考えても、瞼の裏にちらつくのはチョチョの顔だ。

 しばらくすると、扉が開き、温かな香りと共に意中の少女が現れた。


「ご夕食をお持ちしました」


 可憐な所作で、チョチョが持っていた盆から夕食を給仕する。

 真っ白なご飯と山菜の盛り付け。煮物と燻られたヤマメ。そして、どぶろくだとチョチョは教えてくれた。


「いただきます……」


 手を合わし、自分の知らない神様に感謝する。箸を使い、白飯を抓んで噛み続ける。その様子を眺め、仲居はクスッと笑った。遠野の料理に舌鼓を打ち、最後にどぶろくを飲む。舌に残るまろやかな味は、どこかの少女を連想させる。


「ごちそうさま」とカイトが言うと、チョチョは満足気に柔和な笑みを浮かべた。


「どうでしたか、カイト様」

「美味しかった。どれもおれの国じゃ味わえない。この体験もまた、刺激になるな」

「ありがとうございます。では――」


「待ってくれ」


 皿を引こうとするチョチョの手をカイトは掴んだ。


「ここにいてくれ」

「わかりました」


 一瞬躊躇を見せたあと、チョチョは大人しく座り込み、カイトと目を合わせる。


「チョチョ……聞かせてくれるか」


 言おうか言わないか、ハムレットのように迷っていたことを、カイトは訊こうとした。


「これは……いや、ここはおまえが見せている『夢』なのか?」

「……気付きましたか?」

「よそよそしい言い方はやめてくれ、いつものチョチョが一番いい」

「わかったのです」


 頷いてから、チョチョはほんの少しの穏やかな微笑と共に説明を始めた。


「確かに、ここはチョチョのいた翠山荘を再現した世界です。ここに、カイトさんを招待しました」

「…………」

「この遠野の景色をどうしてもカイトさんに見せたかった。本当なら、本物の遠野に連れて行きたかったのですけどね……」


 チョチョが憂いの瞳を遠野の空に向ける。外はすでに夜だった。暗幕に宝石箱をひっくり返したような夜空をバックにして、チョチョは振り向く。


「カイトさん、チョチョはあなたにどうしても言わなければならないことがあるのです」


 月光を浴び、濡烏の髪が羽を広げ、淡く輝いた。

 神秘的な光景に目が釘付けになった。その幻想的な瞬間と共に、チョチョは言う。


「……チョチョは、『座敷童子』ではないのです」

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