世界の中心

 五階に到着し、一行はレストラン・ステッラ・ポラーレに入店。


「ようこそステッラ・ポラーレへ。ステイッゴールド!」


 メートル・ド・テル――給仕長らしき壮年の男が深く頭を下げる。反射的にカイトたちも揃ってお辞儀してしまった。どうも、営業中の癖が抜けていない。


「〈アステリズム〉御一行様ですね。席を用意しています。どうぞ」


 ロココ調のテーブルや調度品に囲まれた空間は、まるでイギリスだということを忘れそうだった。他のテーブル席もまた豪奢な服を纏った男や、造花や羽根をふんだんに使った帽子やドレスの似合う貴婦人で埋められており、カイトは違和感で頭痛を催した。


「お客様、椅子を押します」


 メートルがシャーロットのスカートを傷つけないように、丁寧に椅子を押す。何気ない動作の中に、心意気が伺えぽっとシャーロットは頬を点灯させた。

 かくして、シャーロット熱望のディナーが訪れる。カイトもまた、初めての高級フランスレストランでの食事に、胸を膨らませていると――ちょこんと小さな菓子のようなものがギャルソンの手により運ばれてきた。

 ほんの一瞬、静寂が四人を包み込んだ。


「こ、これだけなのか。なんて高級なのだ! それとも、この菓子には食べただけで全知全能を得られるような魔法の如き知恵が詰まっているとでもいうのか! このドキワクをどうしてくれる!」


「これはまだアミューズよ、セィル。フランス料理はロシア式サービスを取り入れているの。つまり、時間差でオードブル、スープ、魚料理、肉料理、デザートを次々と給仕してくれるの」


 穏やかな口調で説明するシャーロットだが、その目は震えていた。何せ、憧れていたフランス料理がついに顔を出したからだ。


「よし、食べよう。いただきます」


 手を合わせると、奇異な仕草に他の客の視線が集中し、忍び笑いも聞こえたが、カイトは気にせず小さなナイフとフォークを手に取り、菓子を食べた。一口で終わってしまうアミューズだった。

 タイミングよく、呼んでもいないのにギャルソンがオードブルを給仕。チョチョがフォークで山菜を刺し、もぐもぐと食べ始めた。


「しゃきしゃきとして、新鮮で、遠野の野菜を思い出すのです」


 続いて出されたスープはスープ・ド・ポワソン。


「魚介の旨味が凝縮されて……ずっと口の中に残りそうな濃厚な味だ」


 一口含んだだけで、カイトはドーバーを越えたフランス南海を夢想した。

次の魚料理はオマール海老のムース。シャーロットがドームを崩して口に入れる。


「何これ。ソースは何を使っているのかしら……クリームベース? 塩加減も絶妙で、ムース自体も濃密でなめらかで……極楽だわ。どういう手順で作っているのかしら。推理タイムの始まりねっ」


 肉料理はシャロレー牛のロースト。オニオンソースと香辛料のかかった赤身を口にして、セィルに電撃が走った。油でぴかぴか光る唇を上下させ、


「うう、肉汁がっ。しっかり噛み締めないとっ。フフ……天魔の刻来たれり……我の闇の臓腑が、さらなる牛の贄を捧げよと叫んでいるぞぅっ」


 そして、デザートは〈アステリズム〉にも馴染みのあるパイだった。シャーロットがパイを切り取り咀嚼すると、殺人事件に遭遇し戦慄したような表情を浮かべる。


「えっ……まさかこれ、トリュフにフォアグラっ?」


 何度も何度もパイを作り、〈アステリズム〉を支えたシャーロットが、背後から頭を殴られたかのように悶絶し始める。


「悔しい……あたしにも作れるパイのはずなのに……高級食材を惜しみなく包み込んでいるなんてっ。金の力はなんて偉大なの……あと、美味しい。すっごく美味しい」


 蕩けるような声を、シャーロットはこぼした。


「サプライズパイじゃないのに驚いている……シャーロットもこれには完敗だな……」


 最後に出されたコーヒーをじっくりと味わうと、四人は自然と無口になってしまった。多幸感に支配され、楽園でハープを聞いているような心地だ。


「……美味かったな。それしか言葉が出てこない」

「じゃじゃじゃー。これが超高級ホテルのフランス料理……チョチョにはとても真似できないのです……」


 ナプキンで口元を拭き、チョチョは感嘆する。


「ところで、ステッラ・ポラーレってどういう意味なんですか、カイトさん」

「シャーロット」

「そうやっていつもあたしに振るわね。ま、いいけど」

 

 こほんとげっぷを誤魔化すように空咳。


 「ステッラ・ポラーレはフランス語で北極星って意味ね。このホテルの名――ポラリスも北極星という意味よ」


「いったいどういう意味があるんでしょうね。チョチョは気になるのです」

「星の名前か……おれたちの〈アステリズム〉と共通点はあるな」


「ふふっ」とシャーロットが何かを思いついて微笑んだ。


「それにしても、不思議よね。イギリス人に、アイルランド移民の子に、日本の精霊と、妖精が席を囲んで、こうしてフランス料理を食べているの」


 カイトは頷く。


「心ある限り、おもてなしは万国共通だったな、チョチョ。こうして、色んな人たちが集まるのが、二十世紀の常識かもしれないぜ。『O brave new world』――すばらしい新世界、だな」


「よごじゃます。ロンドンは世界の中心のような街ですから、ここから新世界が生まれるのかもしれないのです」

「世界の中心か……。『北極星』は、そういう意味なのかもな」


 メートルに見送られて、カイトたちステッラ・ポラーレを退店。

 膨らんだ腹をさすりながら、


「さて……次にすることといえば……」

「浴場があると言っていましたよね。入ってみるのです」

「浴場か……当然、混浴なんだよな」

「ふふ、チョチョが働いていた翠山荘では、露天風呂がありましたからね。お得意のお客さんが来たときは、背中を流すサービスもしていたのです」

「そうか。じゃあ、おれの溜まった垢でも洗い落してもらおうかな」

「まあ、大胆ですね……カイトさん……」


 頬を紅潮させ、チョチョは身を捩り始めた。


「ん……待て、チョチョ。何か勘違いしていないか……」


「え?」と唖然とするチョチョにシャーロットが追撃。


「公衆浴場はスイムスーツ――水着で入浴するのが常識なのよ」


「え……え……?」と困惑するチョチョにセィルが渾身の一撃。


「まさか、日本では裸で混浴するのか? 信じられない。アイルランドの神々よ、この哀れな野猿の如き日本の精霊に常識を授けたまえ……」


 無知を晒してしまい、チョチョの顔面がかあっと火照ってしまった。

 キリスト教は公衆での裸を禁じている。故に、対策として混浴の際には水着を纏うのがベストだと教えられ、チョチョは得心した。

 ホテル内を移動し、カイトたちは浴場前に到着。入り口の傍にはカーテンに包まれた更衣室があった。カイトが中を覗くと、水着の一式が畳まれていた。


「ほら、水着のレンタルをしているみたいだ。チョチョも着てみてくれ」

「み、水着ですか……着るのは初めてなのです」


 カーテンに潜り込み、チョチョは水着に着替え始める。

 数分後――チョチョが新たなる姿を晒した。


「ははっ。なかなかいいじゃないか」とカイトはにんまり。


「……なんだか想像していた水着と違うのです」


 チョチョが着ていたのは――ほとんどエプロンと呼んでも問題のない水着だった。白いすべすべの腕や足を惜しみなく見せているが、当然ながら、デリケートな部分は全て白に包まれていて、カイトには見えない。


「もっとこう、ふんどしのような露出のあるものかと思っていましたよ」

「それは先鋭的だな……」

「ふふ、それにしても、水着のチョチョは新鮮ね」


 くすくすとシャーロットが笑い出す。


「確かに。いっつも、着物とチャンチャンコだったからな」

「うう……落ち着かないのです……」


 むずむずと身を縮めるチョチョを、愉快そうな顔でセィルが宥めた。


「そう恥ずかしがるな。ふふ……エプロン仲間が増えて我も喜色に染まらざるを得ない」

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