対面オウストラル支配人

 カイトがその言葉を聞いたのは、〈グランド・ポラリス〉からチェックアウトしようとしたときだった。


「失礼します。カイト様、チョチョ様。お話があります」


 世話になったベルマンのグレイが、よどみない所作で腰を曲げて現れたのだ。


「どうしたんですか、畏まって」

「……支配人が、直接話をしたいと仰っております」


 それはこのホテル〈グランド・ポラリス〉を束ねる存在。カイトたちを招待した張本人。エクセレワン・オウストラルに他ならない。


「わかりました。おれたちもお礼が言いたいですし、会わせてください」


 シャーロットとセィルを中庭に待機させて、カイトとチョチョはグレイに案内され、応接室に辿り着いた。グレイがノックをすると、「入りたまえ」と声が跳ね返る。


「では、どうぞ」とグレイが扉を開き、カイトはその男と対面した。


「ハロー、ストーンズリバー君。そして、チョチョ君」


 フランクな挨拶と共に、支配人がカイトに近付き笑う。

 麦畑から刈り取ったような金髪が眩しく、役者と見間違えそうな眉目秀麗な好青年だった。年齢は三十代前後だろうか。あまりにも若く、カイトは驚いたが顔に出さないよう努力し、握手を交わした。


「僕が〈グランド・ポラリス〉の支配人、エクセレワン・オウストラルだ。よろしく」

「どうも……オウストラルさん。渡せる名刺がなくてすみません」

「ははっ、構わないさ、気楽にいこう。僕たちはロンドンの宿場を預かる同志なんだ」


 エクセレワンに促されて、カイトとチョチョはソファに座る。続けて目を巡らす。この応接室にも室内装飾が無駄なく施されていた。ソファに挟まれたテーブルは重厚な黒檀であり、顔が映りこむほど磨き込まれている。ガス式の瀟洒なシャンデリアが、万遍なく光を齎し、エクセレワンの顔を輝かせる。


「どうだったかね、我がホテルは」


 早速、蒼い瞳を輝かせてエクセレワンはカイトたちに感想を求めた。


「ええ……何もかも煌めいていて、まるで童話の世界のようでした」

「チョチョも、自分がいかに田舎者だったのか思い知らされたのです。やはり、世界は広いですね」

「だろう。僕もその広い世界に安らぎを与えるべく、努力したんだ。イギリスは産業革命を終え、さらなる発展を目指そうとしている。世界からは様々な人たちがこのロンドンに集まってきているんだよ。政治家や商業家や、金融・保険業者はもちろん、王族や貴族たちもね。しかし、世界が発展するには痛みが伴う。彼らもまた、働く傍らで悩みや葛藤を抱いているだろう。その痛みを回復させるために、提供しているのが我が〈グランド・ポラリス〉のサービスなのだよ」

「…………」


 カイトはエクセレワンの話を黙って聞き続けた。スケールが違うホテルだと思ってはいたが、彼の話す内容もまた、カイトたちとは別次元だ。

 しかし――だからだろう。今になってカイトは思う。


〝――なぜ、おれはこの男と同じソファに座っているのだろう〟


「至高の料理や、究極のスパ。そして、最高級の設備。僕もできうる限りの力を振り絞り、このホテルを発展させてきた。宿泊客たちからの評価も高く、業績も順調に伸びている」


 そこで一度、エクセレワンは瞳を閉じ、深呼吸する。


「しかし、しかしだ」


 声のトーンが、少し変わった気がした。舞台の主人公のような張りのある声から、どこか野心を抱えた戦術家のように――


「人間というのは、常に欲深い生き物でね。これでもまだ僕は、〈グランド・ポラリス〉に足りない物があると思っているんだ」


 ピアノの鍵盤をでたらめに押したような声色に、どくんと心臓が跳ねる。


「足りない物……?」


 チョチョが、眉間に小皺を刻んで言葉を復唱した。


「それは……」


「それは君だ」


 唇を弓なりに歪めて、エクセレワンがチョチョに視線を送った。


「え……?」


 いつの間にか、カイトの目は泳いでいた。有体に言って、この状況を認識できない。ホテルに足りない物が、チョチョ。どういうことだ。何かを言おうと、言葉を口の中で転がしていると、エクセレワンが追撃の一言を浴びせた。


「チョチョ君……君をこの〈グランド・ポラリス〉に迎えさせてほしい」

「な、何を言っているんです……?」

「座敷童子――それは座敷の守り神。日本の東北に伝わる精霊的存在……座敷童子が守る家に富を齎すという。君がかつて勤めていた旅館――翠山荘もとても繁盛していたようじゃないか。そして、その活動の舞台を日本からこのロンドンに移し、君は傾きかけていた一つのインを再生させた。これを幸福と呼ばず何と呼ぶ?」


 チョチョの唇が震えていた。反論しようとして、我慢している様子だ。


「さらには、愛嬌も良く、そのサービス自体も評価が高い。確かに、君は見ているだけで幸せになれる存在だ。それは僕からも保証できるよ」


 エクセレワンのプレゼンテーションはさらに続く。カイトは、まだ夢の中にいるような気分を味わった。だが、これが現実だ。

 焦燥する頭の中でようやく理解する。エクセレワンは、チョチョを引き抜くために、このホテルへカイトたちを誘い込んだのだ。


「君のようなアビリティの持ち主は、このロンドンには二人としていないのだ。どうか、この〈グランド・ポラリス〉のコンシェルジュとして、働いてくれないだろうか。そうすれば、この北極星はさらに輝くことができるはずだ」


 凛々しい眉を引き締めて、エクセレワンは告げる。


「君を星座アステリズムの一部にするにはもったいないのだよ」

「待ってください。いきなり、そんな話をされて……おれが納得できるわけないでしょう」


 テーブルをばんと叩き、カイトは身を乗り出した。黒檀の鏡には、狼狽する顔が映る。


「もちろん、タダでとは言わないよ、ストーンズリバー君。これはビジネスなのだからね」


 エクセレワンは涼しい顔のまま――ソファの裏に隠していたのだろう――スーツケースを取り出した。テーブルの上に置くと、止め金を外してカイトに中身を見せる。

 その中身が、暗いカイトの顔を照らした。それは金貨の山だった。


「一万ポンドある。これだけの金があれば、君の店もより発展することができるだろう」

「これが、あなたのやり方なのですかっ」

「ここへ君を案内したベルマンのグレイがいただろう。彼も、大地主のカントリーハウスで微に入り細を穿つを体現するような優秀な執事だったんだが、僕が引き抜いたんだ。他にも、ステッラ・ポラーレのメートルやシェフも、フランス本土の店を買い取ってまで手に入れた人材さ。さあ、どうかね、チョチョ君。君も、ここの一員にならないかい?」


 カイトはぎりぎりと奥歯を噛み締める。それが聞こえたのか、黙然としていたチョチョが口を開いた。


「……いい申し出です。チョチョも、より最高のおもてなしを磨ける場所だと思います」

「チョチョ!」


 叫ぶカイトの手を、チョチョの温かな手が握った。安心しろと、手が話している。


「ですがっ。チョチョは、カイトさんを支えるためにロンドンへ来たのです。それが、ジョージさんと交わした約束なのですから」

「死人との契約にそこまで拘るのか。まるでケルトの魔術師だな」

「何より、チョチョはあなたの元で働く気にはなれないのです。カイトさんはチョチョを一人の少女として迎え入れてくれたのです。しかし、あなたはチョチョのことを『物』と呼んだ……金で取引のできる、骨董品のように扱った!」


 チョチョの激怒がカイトの心の奥にまで伝わる。今度はカイトが、チョチョの手をぎゅっと握った。


「残念ですが、おれたちはイン。あなたはホテルの経営者だ。最初から、繋がらない線だったようです」

「すまない。客を怒らせるなど、支配人の風上にもおけなかった」


 エクセレワンが頭を下げると、取り乱していたチョチョが息を整える。


「い、いえ。チョチョも……少し熱くなり過ぎたのです。申し訳ありません……」

「おれたちは帰ります。しかし、このホテルのサービスは、嘘偽りなく最高だった。呼んでくれたこと、感謝します」


 手を繋いだままカイトはチョチョと立ち上がり、エクセレワンに背を向けた。


「ミスター・ストーンズリバー。ならば、守りたまえ。君の店を、そして、彼女を――」

「ご忠告、ありがとうございます」


 カイトは振り返らなかった。そのまま、廊下に飛び出し、シャーロットたちの待つ中庭を目指す。


「カイトさん……」

「ああ、悪い。手を繋いだままだった」

「いえ、ありがとうございます。チョチョにも勇気が湧きました」


 そう言うものの、目に翳を落としてチョチョは呟く。


「しかし、あの支配人も座敷童子については調査不足のようです」

「何か、言ってない秘密があるのか?」

。チョチョがいなくなったら、例え大金を持っていたとしても、カイトさんに不幸が訪れるはずです」


 早口でチョチョが説明し、カイトの臓腑がぞっと冷えてしまった。


「それは……チョチョを渡すわけにはいかないな」

「カイト! チョチョ! 逃げるように走って来たわね」


 さすがはコック探偵だとカイトは感心する。実際にカイトは支配人から逃げてきたのだ。


「何かあったのだな」とセィルが怪訝な顔で尋ねる。


「ああ……」


 カイトは気鬱に頷くと、この研修旅行の実態を打ち明けた。


「……やっぱり、裏があったのね。美味しい話だと思っていたわ」

「仕組まれた罠だったのか。甘い誘惑の上で、首を刈ろうなど、まるで魔女のようだな」


 これにはシャーロットたちも苛立ちを隠さなかった。


 一通の招待状から始まった、〈グランド・ポラリス〉の宿泊体験。その後味は、決して良いものではなかった。

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