揺れる星々

 同じように続く日々――

 しかし、少しずつ、少しずつ、〈アステリズム〉に闇の手が忍び込んでいた。


「すまねえ、亭主! ちと、暖炉の火を借りるぜ」


 日が沈み始めたばかりのときだった。浮浪者のような姿をした男が店内に入り込んで来たかと思うと、そのまま持参した肉を暖炉で焼こうとし――


「あっちい!」


 男は半笑いをしながら、玄関近くの新聞目掛けて――燃える肉を放り投げた。


「なっ……何を!」


 カイトが叫び、騒然とする店内。たちまち火は新聞紙に燃え移り、真っ黒な煙と共に燃え上がってしまった。

 カイトは極めて冷静に、判断を下す。


「セィル! 来てくれっ!」

「お呼びとあらば春風のように! 潮流のセィル・ケネディ、目標を消化する!」


 騒動を聞き付けたセィルが洗い場から現れ、手を炎に向けて翳すと水を放出する。勢いよく溢れる水流が、瞬く間に火を消し去った。


「すごいな嬢ちゃん! どんな手品なんだ?」


 まるで英雄を目の前にしたかのように、客たちは驚嘆と賞賛の拍手を送り続けた。客たちの目にはバンシーの消火活動がパフォーマンスのように映っていたようだ。大事には至らず、カイトは安堵する。


「……座敷童子がいる店で、火事など洒落にならないのですっ」


 憤慨するチョチョの隣で、カイトは首を振り続ける。


「……あれ? 誰が火を借りるって言ったんだ?」


 騒然となった店内に、火点けの男の姿はなかった。


 また別の日――


「おい、亭主! なんだこれは、どういうつもりだ!」


 ある客が怒鳴り散らしながら、料理を指差す。その皿のスープの中には――息絶えた羽虫の姿があった。チョチョが仲居となって以来、清潔を第一にしていた〈アステリズム〉にはありえない瑕疵であった。


「申し訳ありません。すぐに取り替えますので――」


 それでも――カイトは深く腰を折り曲げ、誠心誠意謝罪した。


「ケッ、空気がいいと聞いて来てみりゃ、とんだ酒場だぜ」


 心底不快そうに顔を歪める客。よく見るまでもなく――知らない顔だった。


 それから、連日のように〈アステリズム〉では通常では考えられないような事件が多発する。

 男が突然店内で暴れ出したり、宿泊していた客が幽霊を見たなど妄言を吐いたり――

 カイトの胃はきりきりと万力で締め付けられたように痛み始めた。


 酒場の営業を終了させたタップルームで、カイトは盛大な溜息をこぼす。カップに映る自分の顔は、コーヒーだというのに目の隈がくっきりと目立っていた。鉛を溶かしたように重い空気の中で、カイトは口を開く。


「急に、客たちの様子が違ってきたな」

「そうね。問題を起こすのはいずれも一見さん。それに、ちょっと怪しい服装の人が多いわ。どう見てもトッシャーなのに、いい感じのコートを着ていたりね。まるで、誰かに雇われ、〈アステリズム〉の客を演じているかのように……」


 コック探偵は、冷静にこの連日の騒動を分析していた。


「やはり、偶然じゃない。誰かが裏で〈アステリズム〉の営業を妨害しているってことか」


 誰かが――なんて、ぼかした言い方に意味はないとカイトは舌打ちする。


「エクセレワン・オウストラル!」


 忌々しく、唾棄するようにその名を出した。


「ど、どういうことなのだ、カイト亭主っ」


 清掃作業をしていたセィルがモップを落とした。


「あいつがチョチョを欲しがっているってことだよ。だから、こうやって卑劣な手でおれたちの店を強請ってやがるんだ」

「そんな……それが、ロンドン一のホテルのやることなのか……?」


「ロンドン一だからやれるんだよ」


 カイトたちの会話に、闖入する野太い声。はっとしてカイトが振り返ると、入り口に虎髭の男が立っていた。


「ユージーンさん……」


 かつて、覆面記者として〈アステリズム〉に訪れていたユージーン本人だった。


「……この店で騒ぎが続いていると聞いてな。気になって来たんだ。お前たち……オウストラルに目を付けられたようだな。いや、そこの仲居さんが目当てらしいが……」


 こくりと神妙にチョチョが頷く。


「ユージーンさんも、あの支配人と会ったことがあるのですか」

「……ああ。俺が覆面記者として、この店と同じように〈グランド・ポラリス〉に泊まったんだが……あっさりに正体を見抜かれてしまってな。その後、応接室に連れられて……宝の山を見せつけられたよ。この金貨をやるから、〈グランド・ポラリス〉の評価は最高にしてくれと」

「買収されたんですか!」


 カイトが叫ぶが、ユージーンはかぶりを振る。


「いや、俺だって目は曇ってないぜ。当然、断ったさ。しかし、実際にあのホテルのサービスは満点だったから、評価は覆らねえがな」

「どれだけ欲深いのよ、あの男は……」

「それが金持ちの恐ろしいところだ、コックさん。奴は、俺たちが想像できないようなパイプを各界に持っている。だから、警視庁が動こうが、この事件は治まらないだろう」


 悔しげにカイトは拳を握り締める。


「若亭主。この店の未来は、あんたが握っているんだ。人生ってのは選択の連続だ。あんたがどの道を選ぶのか、俺は見守らせてもらうぜ」


 そう言い残すと、ユージーンは踵を返して夜の街へと消えて行く。

 残ったのは、静寂だった。

 どうするべきか、カイトがチョチョを一瞥すると、視線に気付いたチョチョがすっと立ち上がる。


「チョチョのせいです……チョチョがいるから、この店は狙われる……」


 蒼褪めた表情で、チョチョはカイトに向き合い、言葉を少しずつ紡ぐ。


……この店に被害は及ばなくなるでしょう」


 そして――一番聞きたくない言葉を出してしまった。


「馬鹿なことを言うな。おまえはおれを支えるために来たって、あのとき言っていたじゃないかっ」

「でも……あの人が……ここまでするとは思いませんでしたから……」

「『でも』なんて、おまえらしくない言葉だな……」


 チョチョは、カイトを守るために店を出ようとしている。その言外の優しさが、カイトの胸を温めた。しかし、納得できるほどの器量を、この亭主は持ち合わせていない。


「…………」


 ぴりぴりとした緊張の中、セィルは愛用のハウスメイドボックスとランプを手にし、外へと飛び出す。

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