魔王の城へ

「チョチョがいなくなるなんて、嫌だよ。せっかくこの大都会で出会った、同志……というか、お仲間なんだから……。精霊と妖精同士、仲良くしたいよ……」


 いつもの背伸びした口調を忘れ、セィルは独り言を吐いていた。磨いた玄関の段差に、水滴が落ちる。


「って、言えなかったな……」


 ランプの灯りを頼りに、店の壁を磨きながらセィルは溜め息した。

 セィルはこの店が好きだった。バンシーである自分を気味悪く扱わないどころか、家族同然のように振る舞ってくれた皆のことが好きだった。


「泣いちゃだめだ。わたしには恩があるんだ。この場所が好きなんだ」


 ブラシを持つ手が震え、甲にまたもや雫が落ちた。


「こ、こうなったら、わたしだけでも、あの男の元に行って……妨害を妨害させなきゃ! わたしは……」


 自分は人間ではない。アイルランドの大自然の中で生まれた妖精――バンシーだ。ならば、人間に害を与えても、それもまた自然の摂理なのだ。セィルは、ほんのわずかに滾った決意を秘め、立ち上がった。

 その瞬間――セィルの視界が揺れた。


「むぐうっ……?」


 次いで、現れたのは船酔いに似た頭思感。意識の糸が途絶えそうになるのを、セィルは感じた。暗くなる視界に、咎め声が響く。


「おい、『商品』だぞ。大事に扱え」


 ようやくセィルは理解した。この我が身を狙って、「敵」が闇の中から動き出したのだと。


「きゃ、きゃあああああああああああああっ!」


 恐怖に駆られ、セィルは涙目で力の限り叫んだ。このまま拉致され、ロンドンから消える未来は見たくない。

 嫌だった。みんなとは離れ離れにはなりたくなかった。だから、セィルは抗う。


「せめて……わたしにできることを……」


 セィルは人差し指を地面に向け、メッセージを送り始めた。




「きゃ、きゃあああああああああああああっ!」


 耳を劈く声のあとに、鞭の音が響いた。気鬱だったカイトの表情に緊迫が走る。


「今のは……悲鳴?」とシャーロットが目を点にした。


「まさか、セィル!」


 壊れんばかりに扉を開き、カイトたちが目にしたのは猛然と走る二輪馬車の姿だった。


「……セィルが……攫われた……?」


 ぐらりと世界が揺れる感覚が、カイトを襲った。悪夢の最中なのだと思いたくなった。

 とうとう、最悪の事態が起きてしまったのだ。


「見て、カイト!」


 シャーロットが声を荒げて、暗い地面を指差した。瞠目すると、そこには月光を浴びて煌めく、水の跡が伸びていた。


「セィルさんです。位置を知らせようと、バンシーの力で導いてくれているのです」


 憂いの瞳でチョチョが呟いた。苦々しげに、カイトは断言する。


「……エクセレワンの手の者だ……。おれが行くしかない!」


 今にも走り出そうとするカイトの腕を、チョチョが掴んだ。


「いえ、チョチョも行きます」

「何を言っているんだ。あいつの狙いは、チョチョなんだ。何をされるか、わかったものじゃない」

「だからこそ、です。……あの人はチョチョを傷付けるような真似はしないでしょう」

「……確かにそうだ。こんな話をしている暇も惜しい」


 シャーロットが〈アステリズム〉の脇に止めていた自転車を押し、見つめ合うカイトとチョチョに割って入る。


「自転車で一気に行くわよ。後輪にステップがあるから、そこにあたしがチョチョを抱えて乗る。カイトは漕いで。あなたが一番脚力あるのだから」

「……合理的だ。行くぞ、二人とも」


 逸る気持ちを抑えながら、ナメクジの通ったあとのようなセィルの水をカイトたちは追い続けた。

 その結果、ストランド地区の空き家となったタウンハウスの前でセィルの水は途切れていた。荒れ果てたタウンハウスの中を、三人は捜索する。


「〈グランド・ポラリス〉の近所じゃないか……。この中にセィルが……?」

「見てここ。隠し通路になっているわ」


 シャーロットがチェストを移動させると、その奥には階段が作られていた。


「手の込んだ真似をするっ」


 怒りを露に、カイトたちはその暗い通路の中に足を踏み入れた。その先は、灯りのない地下水路だった。鼠たちの巣となり、強烈な異臭が漂う地下水路を、三人は進み続ける。やがて、小さな光の筋が見え始めた。扉だった。迷わずノブに触れようとするカイトに、シャーロットが忠告する。


「……予感がするわ、カイト」

「チョチョも肌で感じるのです。この先は――この街の闇です」


 脂汗を大量に掻きながら、チョチョが言った。だが、だからこそこの先にセィルがいるのは確かだ。


「それでも行くしかない。この先が魔王の城だろうが、大事な仲間を奪われたんだ。扉を開くことをためらいはしない!」


 カイトは「別世界」の扉を開いた。

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