第三章外伝 真夜中の鐘を聞いたもの
新年の〝夢〟
ぐつぐつぐつぐつ――
〈アステリズム〉のキッチンで、鍋が景気のいい音色を奏でていた。
「まだですよ、まだ、待つのです……」
煮込まれた醤油の香りを嗅いだチョチョが、暴れ馬をいなすように、今宵の客を制する。
「もういいんじゃないの。あたしの推理だと、その肉は完全に煮込まれているわ」
「フフ、我が鍛えし、銀の三つ又により、華麗に掬い取ってみせるぞ……だから、まだなの……チョチョ……」
「おれの胃袋も我慢の限界だぞ、チョチョ」
鍋の中には薄切りにされた牛肉、葱、コンニャクなどが仲良く湯船に浸かっていた。どれもカイトが必死の思いで買い集めた食材だ。
すき焼き。
これこそ以前チョチョが食べたいと言っていた日本の料理である。
今日は大晦日。ロンドンの各地で家族が集まって過ごすように、〈アステリズム〉では従業員四人が肩を並べていた。
鍋の熱気で汗を流しながら、カイトたちは食べるタイミングを見計る。
「ま、待つのです皆さん。こういう料理は雰囲気を楽しむというもの。この煮えたぎる鍋からの香りをまず鼻で味わい、まだかまだかと待ちかねる皆さんの顔色を伺ってから、初めてすき焼きは美味しくなるのです。と、油断させておいてっ」
目を光らせ、我先にとチョチョが箸で牛肉を掬い取り、一瞬のうちに口の中へ放り込んだ。愉悦に満ちた表情で、チョチョは牛肉をもぐもぐと噛み締める。
それが開戦の合図だった。
「そんなことを言って、隙を作らせたのか!」
チョチョを軽蔑しながら、カイトが続けて牛肉を抓もうとし、
「その行動は予測済みよ!」
巧みなスナップを利かせて、シャーロットが横取りした。
「ああっ、おれの肉がっ」
「カイト亭主の敵は、我が討ち取ってみせようぞ! ゲイ・ボルグスティーング!」
カイトが怯んだ隙に、セィルが万感の思いを込めたフォークで牛肉を一突き。素早く口へ運ぶと蕩けるような表情で牛肉を味わい始めた。
「ああっ、おれの肉がっ……」
「皆さんと食べるすき焼きは格別なのです」
次々と三人娘に奪われる食材を目にし、カイトは一人コンニャクを突っつくのだった。
時計の針が次第と新年に向かい、刻み始める――
「さて、すき焼きパーティーを楽しんだところで」
「ああ……」とカイトはうなだれながら、いい加減に相槌。
「鐘を鳴らしましょう」
チョチョの突然の申し出に、カイトたちは目を瞬かせた。
「あ、知らなかったですか? 除夜の鐘ですよ。煩悩を祓うために、百八回鐘を鳴らすのです。ちなみに、煩悩とは心の乱れや欲望のことです。シャーロットさんのお金に対する執着のようなものですね」
「失礼ね。あたしはそんなボンノーなんか持っていないわよ」
チョチョは当然のようにシャーロットの反論を無視した。
「とにかく、日本では欠かせない行事なのです。今からブルームズベリー教会にでも乗り込んで鐘を鳴らさなければ……!」
「おいおい落ち着け、教会は礼拝の真っ最中だ!」
タップルームから外へ飛び出すチョチョの腕を、カイトは素早く掴んだ。
そのとき、からんと入口の鐘が鳴り、チョチョの動きがぴたりと止まる。
「あ、ここにありました。仕方ないのでこれを百八回鳴らしますね」
チョチョはがっちゃがっちゃと扉を開け閉めして、からんからんと鐘を鳴らし続ける。
とてもシュールな図だが、本人は満足そうだった。
「ふふ、我が煩悩も、この鐘の音により虚無へと至るのだな」
奏でられる鐘の音を聞き、セィルがうんうんと頷く。シャーロットは呆れ顔で、
「あなたの欲望なんて、洗いたい磨きたいばっかりでしょうよ」
そんな懸命に鐘を鳴らし続けるチョチョを眺めて、カイトは思いを巡らせた。
一八九三年は祖父ジョージを失い、亭主を継ぎ、怒涛の年となった。チョチョがいなかったら、今自分はどうなっているのだろうと考えない日はない。それがこうして賑やかになったのだから、人生わからないものだ。
「チョチョ、ありがとうな」
「はい?」
「愛嬌看板娘として、いつもこの店を助けてくれてさ。こうして今も煩悩を取り除こうと、必死になってくれている。おまえがいなかったら……おれは」
「もしもの話に意味はありませんよ、カイトさん」
悪戯っぽい微笑みを返され、カイトはふっと息を抜いた。
「それもそうだな」
そこでようやく、チョチョは扉の開け閉めを終えた。
「ふう、これでたぶん百八回なのです」
一息吐いて、達成感と充実感を胸にチョチョは満面の笑みを浮かべた。
「ずいぶんといい加減じゃない」
「いいんですよ、シャーロットさん。実際、百八回と言いながら二百回以上鳴らすお寺もありますので」
たったっと小走りすると、チョチョはカイトの前でぴたりと立ち止まる。
「そうそう、新年を迎えたら、初夢を見ませんとね」
「初夢?」
「日本では七福神が乗る宝の船。他にも富士山や鷹、なすびを夢で見るとその一年は縁起が良くなるとされています」
「すまん、シチフクジンもフジサンも見たことがないから、夢に出る気がしない」
「あ、そうですよね。では、想像してください」
目を閉じ、チョチョは呪文のように呟く。
「真っ青な空。聳え立つ大きな緑の山。頂には白い雪……」
頭の中でチョチョの言葉を復唱し、カイトは想像力を高める。
「……わかった。努力してみるさ」
「フフ、我が想像するのは、日本の神々ではなく島の神々だ。きっとこのセィル・ケネディに力を授けてくれる。そうすれば、我が魂は躍動し、さらなる高みへと至るだろう」
セィルが大袈裟に手をあげ、祈りと共に宣誓。その仕草に、カイトはぷっと噴き出した。
「結局、おれたちにはまだまだ欲望ばっかりだな、シャーロット」
「だけど、人間そういうものだから仕方ないじゃない」
「さ、チョチョの儀式も終わったところで……皆、来年も頼むぞ」
そうカイトが意気込み、大晦日の従業員集会は解散。
「……きっと、いい夢を見られると思いますよ。おやすみなさい」
眠り際、にっこりと笑うチョチョに釣られてカイトも顔を綻ばせる。
その言葉通り、カイトは初夢で「富士山」を見た。
神々しい山の頂から、眩しい朝日が徐々に浮かんでいく夢だった。暁光が空に満ち、不意に、頬を熱いものが駆け抜けていく。
「おはようございます、カイトさん」
目が覚めると、チョチョが目の前でいつも通り金縛りをしていた。カイトは顔を引き攣らせながら、新年の挨拶を口にする。
「ハッピーニューイヤー、チョチョ」
一八九四年。また、新たな年が始まる。だがそれは、〈アステリズム〉最大の危機の年でもあった。
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