コックの憂鬱

「シャーロット……?」


 呼びかけた声は尻すぼみになってしまった。カイトは、そこにいるのがシャーロットだと思えなくなってしまったからだ。まるで霧の中から迷い出た亡霊。健康的な赤毛は手入れされていない絵筆のように乱れており、ひどく充血した目は腫れていた。


「シャ、シャーロット。どうしたのだ? 赫灼の太陽が陰惨たる暗雲に蝕まれたようだ。まさか、幻影に憑りつかれたのでは。ええい、この街に退魔師はいないのかっ!」


 大袈裟な口ぶりで、セィルがシャーロットに駆け寄る。シャーロットは重い足取りで、客時代からお気に入りの席にどっかりと座り、茫洋とした顔のまま呟いた。


「シャーロックが死んだ……」


「何だって……?」とカイトは耳を疑った。


 シャーロットはかじかんだ手を擦り合わせて、声も震わせる。


「ホームズよ。シャーロック・ホームズ……もう終わりよ。何もかも。鬱だ。すったもんだの世紀末だわ……」

「シャーロックって……確か探偵小説の主人公なのですよね?」


 チョチョが小首を傾げてカイトに尋ねる。

 名前を訊かれ、即座に鹿猟帽を被り、インヴァネスコートを纏い、拡大鏡を片手に持ち、パイプを咥えた男のイメージが浮かび上がった。


「ああ、ドイルの小説の……。死んだってことは、なんだ。新しい話が公開されたのか?」


 それはストランド・マガジンの十二月号が発売されたということを意味していたのだ。


「『最後の事件』よ……。シャーロックは宿敵モリアーティ教授と……ライヘンバッハの滝で格闘の末……滝壺に転落した……。ワトソンがそう説明している……」


「今すごく小説の結末ネタバレのようなものを聞かされた気がするぞ」


 蒼褪めた表情で、シャーロットは頭を抱えて唸り続けている。


「白粉が必要なほど死にそうな顔をしています。これは忌々しき事態なのです」

「しかしチョチョよ。たかが小説の主人公の魂が冥府へと葬送されただけで、常闇の底へと身を委ねたように意識が虚空の彼方へと誘われるものなのか?」


ですって?」


 くわっと目を見開いて、シャーロットが借金の取り立て屋のようにセィルに迫った。


「あたしが探偵を志したきっかけ――心の師匠が死んだのよ! セィルはフィクションと思っているんでしょうけどねぇ、あたしとシャーロックとは固い絆で結ばれていたのよ」


 刃物のようにぎらつかせた碧の瞳に涙を添えて、シャーロットはセィルの胸倉を掴む。


「ひっ。ご、ごめんなさいごめんなさい。なんでもしますから許してくださいっ……」

 

 一瞬のうちにセィルの目尻から真珠のような涙が落ち始め、カイトが慌てて止めに入る。


「お、落ち着け。料理人の武器は、首を絞めるためのものじゃないぜ。探偵が人殺しなんて、それこそ低級なミステリー小説だ」

「くっ」


 セィルから手を離して、シャーロットはふんと鼻で息を抜く。ブードゥーの屍体ゾンビのように脱力した様子で椅子に座り込むと、「憂鬱だ……」と愚痴をこぼした。さらには頬を駆ける一筋の雫。精神的苦痛は想像以上のようだ。


 探偵小説を、それこそ浪漫小説のように夢中となって読んでいたことをカイトは知っている。シャーロットにとってあの探偵の物語は聖典と喩えても過言ではない存在なのだ。

 シャーロック・ホームズは確かに架空の人物だが、シャーロットが受けた死の痛みは虚構ではない。恐らく、ジョージを失った直後のカイトのような虚無感に蝕まれているはず。


「もう探偵業もおしまいよ。シャーロックが死んでしまったら、探偵の需要なんて一気になくなるわ……ああ、あたしはこのまま安い給料のコックとして骨を埋めるんだ……」

「こんな状態じゃ、今後の料理は難しいのです」


 チョチョは肩をすくめる。


「シャーロットさんがしゃきっとしていないと、脇腹がむずむずします……」

「大丈夫か、シャーロット……。この週末、〈アステリズム〉を貸し切った大イベントの予約も入っているんだぞ」


 シャーロットはすまし顔をカイトに向ける。


「大イベント? 何それ。美味しい料理を食べられるの?」


「いや、シャーロットが作るのだぞ?」とセィルが目を丸くして言った。


「ああ、そうだったわね。『降霊会』……思い出した……」


 骨の抜けた笑みを浮かべ、シャーロットはうなだれる。


 降霊会――それは霊媒師を呼び、霊と交信するというこのロンドンで流行中の催し物だ。つい先日、あるクラブから〈アステリズム〉を会場として借りたいと申し入れがあり、提示された報酬に目が眩んだカイトが二つ返事で答えた経緯がある。

 パブやインは公民館的な役割も持つ。そのため、依頼さえあれば結婚式や葬式はもちろん、各種イベントの舞台として貸し出すこともあるのだ。かつての〈アステリズム〉では、ジョージが司会役として活躍していたのをカイトは覚えている。


〝――おもてなしをするためにも、手を抜くわけにはいかないんだ〟


 だからこそ、こんな憂鬱なシャーロットに料理をさせるわけにはいかない。いつ手元を狂わせ、包丁で指を切断するかわかったものではなかった。


「カイトさん」


 チョチョが深刻な声で名を呼び、カイトは通過で意を汲み取り頷いた。ぽんと、赤毛が垂れる肩に手を置き優しい声色で聞かせる。


「シャーロット、今日は休め。たとえ架空の人物が死んだからって、つらい顔のシャーロットを働かせるわけにはいかない」

「嫌よ。あたしの生活かかっているんだから」

「給料は出してやる」

「わかったわ。お言葉に甘えて、休養させてもらいます」


 即断即決だった。カイトはとりあえず安堵。

 だが、これはその場しのぎの判断。シャーロットに憑りついた悪霊のごとき悲嘆の想念は、一筋縄ではいかない相手のように思える。


「チョチョ、セィル。シャーロットの憑き物を落とすためにも、あいつに『おもてなし』をしてやろうと思う。明日は定休日だ。気晴らしに外へ出掛けよう」

「ふふ、つまりは魂の行脚……ピクニックというわけか。いいだろう、このセィルも、愛する友のために一肌脱ごうではないかっ。な! ね、ねぇ、シャーロット……」

「はぁ……いいわよ、付き合ってあげるから……」


 果てしなき闇の表情のまま、シャーロットは空返事をした。

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