五つ星ホテルの闇
〈今回の「目玉商品」は、世にも不思議なアイルランドの妖精――バンシーの少女です。彼女は洗うことが大変得意であります。彼女の力があれば、メイドいらず。さあ、世界一優秀な召使いをご希望のお客様は、どちらですか?〉
〝そこ〟では仮面を被った男が、叫んでいた。
男が手を広げた先には、ベッドの上で眠る、セィルの姿があった。まるで眠り姫のように、可憐な寝顔。
ここは疑うまでもなく、奇妙な空間だった。
「……なんだ、ここは」
カイトも、チョチョも、シャーロットも言葉を失った。
震える目を巡らせ、カイトは「会場」を見渡す。
ここは小さなオペラ劇場のように見えた。しかし、灯りは小さく薄暗い。観客席には、ぽつぽつと人の姿が見えるが、誰も彼もが仮面舞踏会のような洒落た仮面を被っていた。
「十万!」「いや、十二万だ!」「私のものだ、十五万!」
彼らが次々と指を何本か上げながら、数字を叫ぶ。
わけがわからなかった。
「なんなんだよ、これは!」
思わずカイトは叫んでしまった。観客席からどよめきが雷雲のように発生し、仮面越しに視線が集中する。
「これはこれは。どうやら、飛び入り参加のお客さんのようだ。しかも、僕の上客の……」
司会者が口端を歪めた。ざわめく観客席に向かって腕を広げ、混乱を収めようとする。
「失礼。僕はこれから彼らとビジネスの話をしたい。今回の落札は延期させてもらいます。また、明朝にでもお客様たちに吉報を届けられるよう努力しますよ」
「何だと!」「あのバンシーで遊びたかったわ」
不満の声がこだましながら、数人いた観客は次々と劇場横の闇のカーテンを潜り帰っていく。きりきりと、ワイヤーの動く音だけがカイトたちの耳に飛び込んだ。知っている音だ。これは、エレベーターの作動音。
間違いない。ここは、〈グランド・ポラリス〉の地下だった。
早鐘がカイトの体を痙攣させていく。本当に、闇の中にカイトたちは忍び込んでしまった。こんなロンドンの光景を、見たくはなかった。
「やれやれ。この子には人知れず世界の闇に消えてもらうつもりだったが、どうやら僕は君たちの絆の力を侮っていたようだ」
芝居がかった口調で、司会者が呟く。この状況を悔やんでいるようでもあり、悦んでいるようにも見えた。その声には、覚えがある。カイトは眉間に皺を刻みながら言った。
「仮面を外してくれ……支配人」
「確かに、これでは対等とは言えないな」
そう言いながら、司会者は仮面を外す。そこにあったのは、見忘れるはずもない容姿端麗。ホテル〈グランド・ポラリス〉の支配人――エクセレワン・オウストラルであった。
「あなたたちは……ここで何をしていたのですか……」
ベッドの上のセィルと男を交互に身ながら、チョチョが尋ねた。
「日本生まれのチョチョ君には馴染みがないのかね? これが僕の裏の商売だよ。何か月かに一回開いているオークションさ。世界中のVIPに貴重な『お宝』を売っているんだ」
「その中に……セィルのような『女の子』も含まれているの?」
「貧民街の中には、ダイヤの原石のような少女もいるが、そいつは飛び切り高く売れる。仕入れ値もほとんどゼロだから、かなりの儲けにはなるのだよ」
シャーロットの質問を昇華してエクセレワンは答えた。『イーストエンドで浮浪児失踪か?』――カイトはかつて、シャーロットが見せた新聞の記事を思い出す。
同時に、カイトの脳裏に自分の言葉がこだました。
〝――ここは『何でも』売っている。人もだ〟
連鎖する符合にカイトの目が震え、目尻に水滴が生まれ始めていた。吐き気もする。ここが地下水路のままなら、間違いなく吐瀉物の湖を作っていただろう。
〝――こんなのが、新世界の一部であってたまるか〟
暗い墜落感に襲われながら、カイトは心中で強く叫ぶ。
「さて、質問には答えた。ここからはビジネスの続きといこうじゃないか。知っての通り、僕はチョチョ君がどうしても欲しい。そのために僕は今まで君たちに『交渉』を続けてきたんだ。今日も、その材料のつもりだったんだがね」
どこまでも、癪な言い回しをする男だった。カイトの胸の中で激情が渦巻く。大事な従業員を拉致し、競売にかけることすら、この男の中では〈アステリズム〉を強請るための条件としか思っていなかったのだ。
「こんなのを見て、チョチョがあなたに従えると、本気で思っているのですかっ。チョチョが鬼ならば……閻魔様の元に送っているのです」
チョチョの激昂が、カイトの精神を安定させる。
「あなたには、『おもてなし』の心がまるでないっ。ただの、薄汚れた餓鬼畜生なのですっ」
座敷童子の悲痛な声が劇場に響いた。しかし、エクセレワンはものともしない。このチョチョの表情すら、芸術品と見間違えているかのように、恍惚な顔で歓迎している。
「だったら、従わせるまでだ」
すっと黒いカーテンの向こうから、上半身裸の筋肉質な男が二人現れた。特徴的な辮髪が左右に揺れる。清国人だ。その体から発せられる殺気は尋常ではない。
「僕が雇った中華ギャングの用心棒。二人とも
エクセレワンが手を下げると、用心棒の二人が俊足で間合いを詰め――張り手がカイトの鳩尾を打った。
「がはっ……」
臓腑が焼けるような痛みに、カイトは眩暈をした。ついに、エクセレワンはカイトに直接手を下したのだ。
「カイトさん!」「いやあっ! カイト!」
チョチョとシャーロットが顔を青くして、亭主の名を叫ぶ。エクセレワンはそれを快感だと言いたげに、笑窪を作った。
「僕の元に来ないのなら、君の契約者を雑巾のように変えてしまうぞ?」
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