in the gathering Dusk(1)
ザッ、ザッ——
目が覚めると、ベッドに横たわっていた。
白い天井が、やけにぼやけて霞んでいる。
ザッ、ザザッ——
傍らには、母がいた。
安心したような、悲しそうな、険しいような、複雑な表情でこちらを見つめている。
ザザッ、ジッ、ザーッ——
母の唇が、かすかに振れた。
喉の奥を懸命に絞り、ようやく聴かせてくれた静かな
ザザッ、ジジッ、ザッ——
——コンラートが……コン、ラ……っ——
ザッ、ッ——
わかっていた。でも、心のどこかで信じ切れずにいた。信じたくなかった。
燃えるような、凍てつくような、深奥から押し寄せる感情の波。
泣いた。叫んだ。自分では制御することのできない情動に、ただただ呑まれるしかなかった。
その直後。
ユリアは、声を失った。
◆ ◆ ◆
昨日から、帝都イルレーシュは物々しい雰囲気に包まれていた。
サミット前日ということで、続々と帝都入りを果たした各国の首脳陣。滞在先を中心に、至るところで警戒態勢が敷かれ、人や物の出入りは厳しく制限された。
軍や警察により幾重にも張り巡らされた規制線。まるで蜘蛛の巣のように緻密に形成されたその網は、わずかなものをも絡め取るという意気込みの表れだ。
そして、ついに迎えたサミット当日。
レセプション会場となる迎賓館では、ふたりの軍人のあいだで最終確認が行われていた。
「んじゃあ、俺の隊が会場後方を担当すっから、ステージ含めた前方はお前の隊の担当な。人員配置は、さっき説明したとおりだ」
「わかりました」
普段着用しているロイヤルブルーのコートではなく、祭典用の真白いコートに身を包んだジークとイーサン。各国の要人たちが着席したことを想定し、ステージ上でパフォーマンスが行われていることも想像しながら、頭の中でシミュレーションを繰り返す。
深紅のベルベットで彩られた会場は、まだキャストが揃っていないにもかかわらず、すでに荘厳な空気を醸し出していた。格式ばった場での要人警護は数え切れないほど経験しているが、この空気は毎回それなりに緊張する。
「問題ねぇとは思うがな。外部からの侵入がなきゃ、中で何か起こるってことは考えにくい」
「外の警護は、ある意味中よりも厳重ですからね」
今回警護に当たっているのは、軍や警察の
現在、首脳陣は別の場所で調印式を行っている。合意する内容は、もちろん『竜人とヒトの共栄』について。おそらく、そろそろ終了し、こちらへと移動してくる頃だろう。
「
「あー……いえ。私が行くと、気勢をそいでしまうかもしれないので、やめておきます」
イーサンの問いに、迷いながらもジークは首を横に振った。会場の前方、幕が閉じられたステージへと視線を移す。
レセプションの終盤で歌を披露することになっているユリアたちは、現在ステージ裏に設置された控室で待機している。数時間ほど前にリハーサルを終え、あちらも最終確認をしている(じゃれ合っている)頃だろう。
ユリアたちがここに到着した際、ひと足先に会場入りしていたジークは彼女たちを出迎えた。少しだけ会話を交わしたが、緊張している素振りを微塵も見せることのない彼女たちに、さすがはプロフェッショナルだと感服した。
「まっ、余計な気ぃつかわせちまうかもしんねぇしな」
「はい。……だから、中将も行かないんでしょう?」
「まーな」
ジークにとってのユリア同様、イーサンにもシンシアという妹がいる。ユリアたちの専属スタイリストを務めている彼女もまた、すぐそこで待機中だ。にもかかわらず、イーサンもそちらへ向かおうとはしなかった。
妹と話をするだけならば、さほど問題はないだろう。しかし、ほかのスタッフたちに要らぬ配慮をさせてしまうのは申し訳ないと思った。こんなにも大きな仕事の前ならなおさら。
この日の行程がすべて終了したら改めて話をしよう。ねぎらってやろう。声にこそ出さなかったが、頭に浮かんだことはふたりとも同じだった。
「……」
「……」
一瞬だけ。
ほんのわずかに、会場の空気がぐにゃりと歪んだ気がした。まるで、得体の知れない化け物が、巨大な口を張ったかのように。
万全を期してある。はずなのに、得も言われぬ不安が、なぜかふたりの胸をよぎったのだ。……嫌な予感がする。
「……ジーク」
「……」
「護るぞ」
「……はい」
もうすぐ、黄昏が落ちてくる。
◆
車内から見た街は、陽炎のように揺らめいていた。
沿道に並んだ大勢の民。その手には小さな帝国旗が握られ、皆一様に笑顔を浮かべている。日が傾いてきたとはいえ、まだまだ気温は高そうだ。
「暑いだろうに……わざわざ出てきてくれなくてもいいのにな」
向けられた笑顔に笑顔で返しながら、グランヴァルトは小さく息を吐いた。どのくらいの時間、彼らはこの車列を待ってくれていたのだろうか。ありがたいと思う反面、やはり憂わしく思ってしまうのも事実である。
「皆、それだけ陛下のことをお慕い申し上げているということです」
革張りの後部座席、隣に座ったオーエンが言う。半開した窓から熱気とともに入ってくる歓声に、黒の双眼を眩しそうに細めた。
「機嫌はもう直ったのか?」
「……もとより損ねてなどおりませんが」
「嘘つけ。顔顰めてただろうが。額の皺が増えてたぞ」
「……」
調印式を終え、迎賓館へと戻る道すがら。
皇帝と内務大臣が同じ車に収まるというのも奇妙な光景だが、これを提案したのは言わずもがなグランヴァルトである。ただ移動するだけだろうとの独自の見解から、本来オーエンがひとりで乗るはずの車を一台引っ込めてしまったのだ。おかげで、かなりの経費が削減された。
相乗りを持ちかけられたオーエンの怒涛の心境は、推して知るべしだろう。
「俺は、ひとりで乗るよりも、お前とこうして一緒にいるほうが楽しいけどな」
「……恐悦至極にございます」
震える溜息が車内に響く。運転手の漏らした苦笑が、せめてもの救いだった。
よって、公務に楽しさを求めるだなんて何を考えているんだとか、そもそも自分なんかと一緒にいて楽しいわけないだろうとか、諸々申したいことはあるけれど、すべてまるっと呑み込んだ。
「まあ、とりあえず議定書が批准されて安心した。……お前も、ご苦労だったな」
「お言葉、痛み入ります」
こういう人物だから仕方がない。
自分が、心の底から仕えたいと思えてしまった人物だから。
今から遡ること数時間前。7つの加盟国が、議定書にいっせいに調印した。この様子はメディアによって世界各国に報じられ、この日のトップニュースとなった。
竜人とヒトの共栄——法的拘束力はないまでも、ある程度の遵守義務は課せられる。調印した内容をどう扱うか。目標に向かってどう進むのか。国の品位が試されると言っても過言ではない。
加速した車の窓が上昇する。街と街とを結ぶ道路に、民の姿はほとんどなかった。
「……にしても、
「私も驚きました……」
足を組み、頬杖をついたグランヴァルトに、オーエンが同調する。ふたりの話題にのぼったのは、とある竜人男性だった。
ガルディア帝国外務大臣——モーガン・ルツヘルム。オーエンほどではないが、堅物で名の通った政治家である。年齢は、オーエンと同じ五十二歳。叩き上げのオーエンとは異なり、両親ともに大臣経験者という、いわゆるサラブレッドだ。
しかし、豊富な知識を有する非常に優秀な人材で、その巧みな交渉術には定評がある。弁論術も然り。グランヴァルトが厚い信頼を寄せる臣下のひとりなのだ。
「今日の調印式は、お前が行くほうが意義があるって考えたのかもな」
「そうかもしれません。……そんなことは、ひとことも言っていませんでしたが」
「お前以上に素直じゃないからな。モーガンは」
堅物の顔を思い浮かべながら、喉の奥でクックッと笑う。
もともと今日の調印式には、グランヴァルトの補佐としてモーガンが付く予定だった。しかし、直前になり、彼からオーエンに変更してほしいとの申し出があったのだ。おそらく、彼なりに議題を鑑みた結果なのだろう。
顔を合わせればいがみ合うようなふたりだが、国に対する忠誠心や、職に対する誇りを強く抱いている点はよく似ている。衝突しながらも、互いのことを高く評価している点も。
「面倒かもしれんが、このあとのレセプションも頼むな」
「面倒などとは微塵も思っておりません。公務ですから。……陛下も、どうか顔色にだけは出されませんよう」
「……努力する」
オーエンの小言に前向きに返答するも、あの面子とまだテーブルを囲まなければならない現実に気が滅入る。
好きとか嫌いとか、気が合うとか合わないとか、そういうレベルの話で済ませられたらどれほど楽だろうか。くだらないとわかってはいるが、たまにそんなことが脳裏にちらついてしまう。君主とは、まったく難儀な生き物だ。
……ただ、あの七三カモメ眉とは、どう転がっても相容れない。たとえ天変地異が起ころうとも。
「……あ、そうだ。お前、気づいてたか?」
「……何をです?」
「スハラの従者の中に、ひとりだけヒトがいたこと」
「なっ……本当ですか!?」
主の唐突な言葉に、吠えるようにオーエンが聞き返した。なんとも大仰な反応だが、無理もない。
「ああ。たぶん六十前後だな。お前よりは上だったと思う」
「まさかそんな……王族の従者にヒトを据えるなど」
「あの国じゃ考えられないことだよな」
調印式の最中。何気なく視線をやった会場の隅に、グランヴァルトの意識は縫いつけられてしまった。
たまたまだった。スハラの従者のひとりが、何か懐中時計のようなものを落とし、慌ててそれを拾い上げたのだ。時間にして数秒。あの場にいた者は、調印している自分たちのほうを見ていたので、彼の行動には気づいていないだろう。
「よく顔がわかりましたね。ただでさえ、あの国の従者は皆、顔はおろか指先さえも見せないのに」
スハラの従者は、ナジュという見目麗しい側近を除き、ほかはすべてフード付きの黒いローブを着用している。肌も見えなければ、ほとんど声を聞くこともない。他国に干渉するつもりはないが、はっきり言って異様である。
「ほんと、たまたまだったんだって。それにほら。俺、視力いいから」
「なるほど。……というか、よそ見をなさっていたのですね。式の最中に」
「……」
オーエンがジト目で抗議するも、黄金色の目をすっと横に逸らされてしまった。反省の色が皆目見られない主に、頭がくらくらする。が、もはや掘り返しても仕方がないと、諦めて水に流すことにした。
夏の夕空の下。黒塗りの車列が、速度を落としながら帝都の中心部へと入っていく。もうすぐ、再度窓を半開にし、笑顔で民衆に応えなければならない。
「パフォーマンスのつもり、なのでしょうか? 議定書を批准する上での」
「さあな。けど、あの服装のせいで顔もろくに見えないんだぞ。現にお前だって気づかなかったくらいなのに、意味あると思うか?」
「たしかに……」
独裁的で、あまり変化を好まない国だ。いくらサミットのためとはいえ、山よりも高いプライドを急に折り曲げることは考えにくい。
「お前の言うように、ただのパフォーマンスならいいけどな」
あのときフードから覗いた男の顔が、グランヴァルトの中でずっと引っかかっている。
哀しそうに、恨めしそうに、苦しそうに、拾った何かを見つめていた。それから、至極愛おしそうに——。
運転手が、窓を開けてもいいかと伺いを立ててきた。構わないと伝えれば、ゆっくりと窓が降りていく。
熱気とともに車内へと入ってくる歓声が、やけに遠く感じられた。
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