repentance(2)
「レイくん、そろそろ休憩にしない? コーヒー入ったよ」
「ああ、ありがとう」
ノックと同時に作業部屋のドアが開く。ひょっこり顔を出したのは、妻のエマだった。
帝都内に聳えるマンション、そのワンフロアが、リカード夫妻の自宅兼スタジオである。
帝都内を流れる川沿いに面した、閑静な高級住宅地。マンションも一戸建ても各界のセレブたちが所有・居住し、地区のセキュリティは万全だ。
結婚して六年。当時は新築だったこのマンションも、ふたりと同じだけ月日を重ねた。
「練習はかどってる?」
「あんまり。五人じゃないと、やっぱり調子出ない」
二時間ほどドラムを叩いてみたが、なんだか音が馴染まない。妻の問いに正直に答えれば、「わたしもおんなじ」と彼女も笑った。
時世を鑑み、活動を自粛して数ヶ月が経過した。大人数が集まるイベントやコンサートは、テロのリスクが高まるという理由から、軒並み中止となっている。リスクを回避しての生活。必然的に、仲間たちと集まる機会も減ってしまった。
「今日淹れたコーヒー、ミトさんがくれたんだ。『せっかく家時間増えたんだし、ふたりでゆっくり飲んで』って」
ダイニングに立ち込めるコーヒーの香り。馥郁とした挽き立てのそれに、レイは胸のすく思いがした。
厳密に言えば、ミトはユリアのマネージャーであって、自分たちのマネージャーではない。自分たちはあくまでユリアのバックバンドで、ユリアの後ろにいるだけ。だが、優秀な彼女は、自分たちのこともじゅうぶんすぎるくらい気にかけてくれている。今回の事態においても、ヴォルターと連携を取りながら、自分たちの精神的な負担を軽減しようと献身的に支えてくれているのだ。
夫婦ふたり暮らし。いつものように、テーブルに対座する。
と、いつもとは違うあることに、レイは気がついた。
「こんなコーヒーカップ、うちにあったっけ?」
湯気の立つ真白いカップに目を落とし、ぽつりと漏らす。至極シンプルかつ上品なそれには、新品ならではのつやがあった。
「これね、お
「……あの人が?」
にこりと微笑を湛え、エマは頷いた。
テーブルの中央に置かれた同じデザインの平皿。エマ手作りのクッキーが並んだそれもまた、一緒に送られてきたものらしい。
「お礼の電話かけたんだけど、お義父さんには繋がらなくて。秘書の方に、伝えておいてくださいって、お願いした」
「……そう」
伏し目がちにひとことだけ返すと、レイはコーヒーカップに口づけた。まろやかな苦みと酸味が、舌の上を転がる。
無意識に瞼に愁いを滲ませれば、レイの気持ちを的確に汲み取ったエマが、こんな問いを投げかけた。
「やっぱり、まだお義父さんとは話したくない?」
レイと父親との関係。それは、お世辞にも良好なものとは言えなかった。
レイの実家は大手石油会社を営んでおり、原油の調達から石油精製、物流、販売に至るまで、幅広く事業を展開している。近年は、燃料電池やその他技術開発にも注力してるらしい。
レイの父親は、二代目社長として、先代——つまりレイの祖父から受け継いだこの会社を、世界トップスリーのシェアを誇るまでに押し上げた。
誰もが認める事業家。エネルギー界の重鎮である彼の影響力は絶大で、その発言はときに財界をも動かした。
父親は、竜人。
ヒトである母親は、いわゆる愛人だった。
「話したくない、とかはわからない……けど、どんなふうに話せばいいのかわからないっていうのはある」
未婚のまま自分を育ててくれた母親とは、十二のときに死別した。それを機に父親に引き取られたが、本妻に蔑まれ、異母兄に疎まれた過去は、どうしたって拭えはしない。
仕事最優先の父親からは、事あるごとに「リカードの名に恥じぬよう」と言われ続けたけれど、そんなことレイにとっては死ぬほどどうでもよかった。
あの屋敷には、自分の居場所なんて、どこにもなかったのだ。
カチッと、壁掛け時計が午後五時を告げる。眼下を流れる川は夕日を反射し、辺り一面に細かい光が散らばっている。
穏やかな水面。今年の夏、雨量はそれなりにあったものの、この川が豹変することは一度もなかった。
「家族との関係は、人それぞれだからね。血が繋がってるからってわかり合えるとはかぎらないし、うまくいくともかぎらないから。……でも、わたしもだけど、おじさんたちがいてくれたから、自分の家族も……自分も、許すことできたよね」
眉根を下げてエマが笑う。今度は彼女が、そのもつれた心情を吐露する番だった。
彼女の言う『おじさんたち』とは、ユリアの両親とジークの両親。家庭環境が複雑だった幼い自分たちを優しく大きく包んでくれたのが、彼ら四人だったのだ。
教師だったエマの両親は、忙しいながらも深い愛情をもってふたりの子どもを育てた。両親と過ごす時間はほとんどなかったが、6つ離れた兄がいてくれたおかげで、エマが寂しさを感じることはなかった。
そんな一家に転機が訪れたのは、エマが七歳のとき。
両親が離婚した。原因は、父親の病気。
その年、父親の担任していた子が、いじめを苦に自殺した。当時十一歳だったその子はヒトで、笑った顔が実に愛らしい男の子だった。
学校側はいじめの事実を認めることなく、ほどなくして事態は収束。小さな命の大きな叫びがメディアに取り上げられることは、ついになかった。
守ってあげられなかった——。嘆き悔やんだ父親は、心を病んだ。幼かったゆえ、当時のエマにはすべてを理解することこそできなかったけれど、苦衷に項垂れた父親の姿は、今も鮮明に覚えている。その手には、常に、アルコールの瓶が握られていた。
エマは、母親と暮らすことになった。だが、兄は、自ら父親と暮らすことを望んだのである。
そのわずか三年後に父親が病死していたことを、兄が亡くなった際に、エマ
兄は——コンラートは、デビュー直前だったという事実とともに。
「お兄ちゃんが亡くなって、そのときもうすでにお父さんが亡くなってたっていうの知って……。『なんでお父さん見捨てるようなことしたの』ってお母さんに八つ当たりして、わたしもお兄ちゃんと一緒にいればよかったかもって後悔して……何も知らずに過ごしてた自分が、許せなかった……」
「お前が責任感じることなんかないよ。コンラートだって、そんなこと望んでない。お前が普通に生活してたのなら、あいつにとっては、それが一番だと思う。離れて暮らすお前のこと、ずっと気にかけてたから」
目元を潤ませるエマに対し、諭すようにレイが言う。
折に触れ、レイはエマのことをコンラートから聞いていた。ユリアと年の近い妹がいるのだと。ピアノがとても上手で、コンクールで受賞したこともあるのだと。
元気に暮らしていてほしいと。笑って過ごしていてほしいと。
ユリアを見つめるコンラートの眼差しは、まさに兄のそれだった。今思えば、彼はユリアにエマを重ねていたのかもしれない。
「お前が俺たちと……ユリアと一緒に音楽やってること、あいつ絶対喜んでると思う。ある意味、誰よりも一番」
レイのあたたかさが、じわりと胸に沁みる。もう何度目かの夫の励ましに、エマは鼻の奥がつんと痛んだ。
「……わたし、お兄ちゃんのこと、ほとんど知らないの。友だちとどんなふうに遊んでたとか、どんなふうに学校生活を送ってたとか」
好きな食べ物は知っている。音楽が好きだということも、もちろん知っている。
だが、自分が兄と過ごした時間は、たった七年。知らないことのほうが、圧倒的に多いのだ。
「笑ってたよ」
「……え?」
レイの紫紺の双瞳が、エマの榛色を真っ直ぐに捉える。
意表を突かれて止まった涙が、込み上げた情動に再度呼応した。
「先輩が呆れても、アミルが怒っても、俺が小言言っても……あいつは、いつも笑ってた」
病気の父親を抱えた兄を取り巻く環境が、いったいどんなものだったのか……母親の手前、あまり口にすることはできなかったが、エマはとても心配していた。
兄が亡くなった直後はわからなかったけれど、今まさにその環境に身を置く自分には、つぶさに理解することができる。
兄は、けっして孤独ではなかったのだと。
「ありがとう。……みんながいてくれて、本当によかった」
こんなにもあたたかな人たちに囲まれて、生きていたのだと。
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