repentance(1)

 唇から細く長く吐き出された紫煙。

 消えゆくその向こう側、茜色に燃える空を仰ぎ見ると、ヴォルターは革の携帯灰皿アッシュトレイに吸い殻を押し込んだ。シンプルかつ高級感のあるデザイン。落ち着いたワインレッドの外装は、経年変化によって、よりいっそう味わい深いものとなった。

 寂寞とした秋風が、色づき始めた木立をさざめかせる。街を見渡せる丘の中腹に立ち、心なしか緊張した面持ちで約束の相手を待った。珍しく光沢てかりのない黒のシャツが、緊張の度合いを瞭然と示している。

 これから会う彼は、この携帯灰皿を贈ってくれた彼女の父親で、元上官。

 およそ二十年前。先陣を切って敵地へと乗り込み、自分を救い出してくれた命の恩人。

「……ご無沙汰してます、セオドアさん」

 セオドア・シュトラス。

 当時大将だった彼は、親友亡き今、その遺志を引き継ぎ軍を統べる立場となった。

 完全なプライベートだからだろうか。普段はひとつに束ねているプラチナブロンドの長髪を背中に流し、青ではなく黒のロングコートを纏っている。体の輪郭をなぞるような細身のそれは、上背のある彼によく似合っていた。

 御年五十八。炯々とした蒼い眼光は相変わらずだが、恭しく頭を下げるヴォルターに注がれた眼差しは、彼の優しい人柄を余すことなく表していた。

「元気そうだな。二年ぶりか」

「エドガーさんの葬儀以来ですからね。……不義理をしてしまい、申し訳ありません」

「いや。私のほうこそ、娘が世話になっているというのに、ろくに挨拶もせず申し訳ない」

 眉根を下げ、笑ってそう言ったセオドアの相好は、まさしく父親のものだった。ここだけを切り取ってみても、彼がどれほど娘を大切に想い、その繋がりに感謝しているのかということが窺える。

 そんな彼に対し、ヴォルターは伏し目がちにかぶりを振った。不安定な世情の中、まともに休む間もなく働く彼から謝罪を受ける道理などない。おそらく、家族でさえも、彼とまともに顔を合わせられてはいないだろう。

 国を護るという重責。その頂点に立つという重圧。

 セオドアの抱えるものをつぶさに把握することなど到底できないが、想像することはできる。かつてはヴォルターも、幹部として国防に身を投じていた軍人だったから。

「もう二十年か。お前が退役してから」

「はい」

「いくつになった?」

「四十九です」

「……若いな」

「ははッ。アナタからすればそうかもしれませんが、じゅうぶんいい年ですよ」

 気が置けない間柄こその会話。年齢は離れているし、立場もまったく違うけれど、それでも昔と変わらず接することができるのは、互いに強い信頼を寄せているからだ。

「……傷は、まだ痛むか?」

「そう、ですね。たまに。……でも、時間が経って、ずいぶん良くなりました。夢に魘されることも、今はほとんどありません」

 自身よりも少しだけ低いセオドアの目元から視線を外し、眼下の街並みへと移す。そこには、寂寥感を増長させる秋の夕景が広がっていた。

 右のまなじりから頬にかけて大きく走った傷痕。引き攣ったそこを指でなぞりながら、ヴォルターは瞳を閉じた。瞼の裏側に、過去の忌まわしい記憶が、鮮烈な映像として蘇る。

 今なお自問し続けている。あのとき自分が取った行動は、どれほど愚かで浅はかなものだったのだろうかと。

 二十年前、ヴォルターは、同盟国の戦闘地域にいた。その国の反政府勢力から町を解放するため、応援として入域した。

 民間人の死者およそ千人。うち、幼い子ども数百人。事前情報から、苛烈を極める状況であることは容易に推察できた。生きて帰れないかもしれない。そう覚悟していた。

 しかし、当時の団長だけは、事態をそれほど深刻に捉えていなかったのだ。反政府勢力とて所詮は民間人の集まり。よって、制圧するのにそれほど時間はかからないだろうと。

 その考えが甘かったと団長自身の口から聞いたのは、仲間がふたり拘束されたあとだった。

 どういう経緯で仲間のもとへと向かったのかは覚えていない。ただ、反対する団長を押し切り、一緒に行くと言ってくれた部下たちを制して、敵のアジトに単身で乗り込んだ。

 あのとき見た凄惨な光景は、生涯忘れることなどできはしない。

 尖った砂利の上に広がった血の海。散乱したいくつもの器具。拷問のすえ殺されたことは明白だった。


 ——うおおォォあ゛あ゛あ゛ァァァ!!!!


 足元に転がったふたりの骸に我を忘れ、咆哮とともに剣を振るった。怒りと憎しみに任せ、目についた相手を容赦なく斬り倒した。

 そこが敵陣であることも失念するほどに冷静さを欠いていた。奴らが応援を呼んだことさえ気づかないほど。

 捕らえられ、服を剥がされ、頬を裂かれた。拷問の苦痛や殺される恐怖よりも、悔しさと不甲斐なさに顔が歪んだ。

 しだいに薄れゆく意識の中。

 ぼやけた視界で捉えたのは、次々と静かに倒れる連中と、悍ましくも神々しい『知将』の姿だった。

「正直、大将であるアナタが来てくれるとは思いませんでした。上は、それほど厄介な案件だと認識してなかった印象だったので」

「今では考えられんが、正確な情報が我々のところまで上がっていなくてな。自分の目で直接状況を確かめたくて入域した」

「よく許可がおりましたね」

「あれは『おりた』とは言わんだろうな」

「……え?」

「お前と同じだ。押し切った。……と言っても、私ひとりで押し切ったわけではないがな」

 意想外のセオドアの返事に、ヴォルターは目を丸くした。やはり親子というべきか。彼は、まるで彼の娘を彷彿とさせるような、悪戯な笑みを浮かべていた。

 明言はされなかったが、彼が匂わせたもうひとりの上官に対しても、ヴォルターは衷心から敬服し、感謝している。

 当時、セオドアと同じく大将という立場に身を置き、傷ついた自分を支えてくれた存在。

「仮に私が行かなかったとしても、代わりにあいつが行っていた」

 今は亡き前元帥——軍神ゼクス・フレイムである。

 他国への出兵は、たとえ先方からの要請があったとしても簡単なことではない。軍事面はもちろん、政治面においても、きめ細やかな調整が必要となる。

 諸々の違和感を訝しく思い、国に残ったゼクスに調整役を任せて、セオドアは自ら現地へと赴いた。それが適当だと判断したからだったが、結果的に最善だったことは言うまでもない。

 反政府組織を裏で操っていたのが、当の同盟国軍の将校だと判明したときは、たとえようのない怒りに全身が戦慄わなないた。

 真実を突き止めたことで作戦は明確に掃討戦へと切り替わり、ゼクスによる諸外国への働きかけもあって、事態はなんとか鎮静化へと向かった。……が、うしなったものはあまりに多く、大きかった。

「おふたりがいなければ、オレは間違いなく死んでました。本当に、ありがとうございました」

「今さら私にかしこまったりするな。お前を助けることができてよかった。……ゼクスも、同じ気持ちだ」

 それでも、守れたものがある。その事実は、尊さは、無条件に誇るべきだろう。

 ヴォルターの退役が、軍にとって大きな痛手となったことは間違いない。しかし、彼が今の道を選んでくれたおかげで、娘は歌う場所を手にすることができたのだ。

 そもそも、娘から見せられた名刺が彼のものでなければ、連絡などしていない。ほかの誰でもない彼だから、安心して娘を任せられる。

 これには、生前ゼクスも共感してくれていた。

「……ああ、そうだ。ヴォルター。お前、ジークたちに会ったか?」

「え? いえ。墓参に来てたんですか?」

「ああ。夫婦でな」

「しばらくここにいましたが、会ってませんね。オレが上に行ったときも、まだ来てませんでした」

「そうか。違う道を通ったのかもしれんな」

 ここに来る直前。

 セオドアは、この丘の頂上にあるゼクスとルナリアの墓前に花を手向けてきた。

 今年は来られないかもしれないとなかば諦めていたが、どうにか日程を調整することに成功した。ヴォルターが訪れることは事前に聞いて知っていたけれど、まさかジークたちも同じ日時を選んでいたとは。

「今日、初めてあいつの妻に会った」

「あァ、噂の。ユリアも早く会いたがってました。『妹ができる!』って喜んでたんで、どっちかっつーと姉なんじゃねェのかって指摘したら『どっちでもいい!』って」

「……まったく同じ台詞でジークに窘められたと聞いた気がするな」

「いい意味で全然変わりませんね、ユリアは」

 実の息子同然のジークが結婚して所帯を持ち、いつまでも幼いと思っていたユリアはいつの間にやら二十四歳。道理で年を取るはずだと、時の流れをしみじみと感じる。

 時の流れは普遍だ。けれど、誰もが等しくその時間を享受できるわけではない。時間が止まってしまった者を、年を重ねられなくなった者を、自分は……自分たちは、嫌というほど見送ってきた。

「娘さんはいくつになった?」

「この冬で十七になります」

「難しい年頃だな」

「まったくですよ。口じゃ勝てる気しないです」

 だからこそ、繋いでいく。

 後悔と戒めにもがきながら。感謝と希望を謳いながら。

 若い彼らが理不尽に嘆かず生きられる世界を。彼らが、彼ららしく生きられる世界を。

「ユリアと言い合いになったこととかあるんですか?」

「ないな」

「え? 1回も?」

「ああ。私がユリアの言うことを聞いてしまうから、意見が対立したことがない」

「ははッ。なるほど」

 高く遠い雲の切れ間から、光の柱が降り注ぐ。

 かすかに、けれど確かに。

 未来を告げる暁鐘の音が、気高く、厳かに、鳴り響いていた。

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