Dreamboat(2)

 うらうらとした室内に、清新な太陽と華やかな紅茶の匂いが立ちこめる。

 深みのあるオークを使用したセンターテーブル。その上に用意されたふた組のティーセット。

 従者が退室し、ふたりきりとなって十数秒。ユリアとグランヴァルトは、互いに言葉を交わすことなく対座していた。

 ここは二階にあるグランヴァルトの自室。家具などの調度品は最小限にとどめられていて、別荘といえど、貴族の部屋にしては飾り気がなく殺風景だ。

 沈黙が垂れ込める。けっして気まずいというわけではない。むしろ嬉しくてたまらないのだが、何からどう話せばいいかわからないといった状況である。

「……あ、あのっ」

 頃合いを必死ではかり、最初に声を発したのはユリアだった。

 脱いだベレー帽は、紳士用のストールと一緒に脇へ寄せられている。纏っていた布を少し取り去っただけで際立つほどに、彼女の体は細かった。

「あ、あの……カード、ありがとうございました。すごく、嬉しかったです」

 愛らしい声が、小さな口から珠のようにまろび落ちる。歌声とは少々ギャップのあるそれでたどたどしく切り出したのは、あの日の贈り物に対する謝辞だった。

 ここへ到着してからというもの、ユリアの緊張は堆積するばかり。寒くなどないのに、怖くなどないのに、体が萎縮してしまう。

 そんなユリアに、グランヴァルトが笑って告げる。

「ああ、いや。無事に届いてよかった。……ジークに、感謝しないとな」

 真正面から注がれる、凜々しくも美しい声。いつもと変わらぬ優しい顔が、手を伸ばせば届く距離にある。

 だが、彼の内側にちらつくかすかな戸惑いを、ユリアは感じ取ってしまった。感受性が強いがゆえに、このあたりの心の機微はすぐに嗅ぎ取れてしまう。

 邪魔になるかどうか判断できない、とのイーサンの言葉が脳裡をかすめた。やはり、自分はここへ来ないほうがよかったのだろうか。

 沈黙が、再度訪れる。

「……」

「……」

 それを打ち破ったのは、

「……あーっ、ダメだ!! 我慢できんっ!!」

「ぅわあっ!!」

 抱き締めたグランヴァルトの雄叫びと、抱き締められたユリアの驚嘆だった。

「グ、グラン様……?」

 突然のことに、ユリアは目を白黒させた。心臓が、ありえない速さで踊っている。

 対座していた彼が隣に移動してくるまで、まさに一瞬だった。その間、はたして自分は呼吸をしていただろうか。

「……かった」

「……え?」

 花蜜のように甘い香りが、鼻孔をくすぐる。反射的に短く聞き返せば、背中に回された両腕に力がこもった。

「会いたかった」

 心臓を、撫でられた気がした。

 唇が耳朶に触れる。はっきりとした音吐が鼓膜を揺らす。

 触れ合った部分から伝わる柔らかなぬくもりに、ここへ来てもよかったのだと、ユリアは心の底から安堵した。

「……わたしもです」

 額に。目元に。頬に。——唇が、まるで淡雪のように落ちてくる。

 引き寄せられるように交わした口づけは、蕩けそうなくらい熱かった。


 青い空が、徐々に橙に傾く中。

 ユリアは背面に、グランヴァルトは正面に、それぞれ熱を分け合い、至極緩やかな時間を過ごした。この一年、互いにただ想い合うことしかできなかったが、それでも確かに愛は育まれていたのだと実感した。

 ソファの上で、グランヴァルトの脚の間にすっぽりと収まるユリアは、さながら小動物。時折振り返り、彼の顔を仰ぎ見ては、愛嬌よく微笑んだ。つぶらな瞳の愛くるしさは問答無用だ。

「——ので、家事をしたり、本を読んだりしてる時間が多いです」

「そうなのか。家事って、料理したりとか、掃除したりとか?」

「はい。あと、ガーデニングとか」

「へー、すごいじゃないか。お前、ほんっと多才だな」

「そ、そんなことないです! ただの趣味で……って、ごめんなさい……! わたし、自分のことばっかり……」

「いや、いい。もとはと言えば、俺が言い出したことだからな。『お前の近況が聞きたい』って。話せることは何でも話してくれ」

「何でも……ですか?」

「何でも。……もっと、お前の声を聞いていたい」

 ユリアの首元に顔をうずめ、甘やかな声でグランヴァルト。髪の隙間から覗く白い肌に、啄むようなキスを繰り返す。何度も何度も繰り返す。

 どこまでも真っ直ぐなその愛情表現に、ユリアの頬は熟れるばかり。けれど、その心地よさに、気づけばとっぷり浸かっていた。

 イーサンの言ったとおりだった。グランヴァルトは、ユリアの話を喜んで聞いてくれる。ときに感嘆し、ときに声を出して笑いながら、事実や感情を共有してくれる。

 このまま時間を忘れ、彼の優しさに溺れてしまいそうだ。

「……グラン様」

 しかし、一方で、気にかかっていることも。

「ん?」

 ここへ来てからずっと、彼の顔を見たときからずっと、気にかかっていること。

「お顔を、見せてください」

「え?」

 顔を持ち上げた彼の双瞳を、真っ直ぐに捉える。不思議そうな色を湛えたその奥で、眉を顰めた自身の顔が力なく揺れた。

「顔色が、よくありません。少しやつれています。……ちゃんと、休めていますか?」

 彼の両の頬に手を当て、問いかける。触っただけでわかるほどに肉は落ち、もともと深い目元の彫りはますます深くなっていた。そのせいだろうか。純金のように眩いはずの瞳が、翳っているように感じられた。

「心配、です」

 か細い声で呟くと、ユリアは俯いた。思わず逸らしてしまった目を、不安げに泳がせる。

 どうすればいいのかわからない。彼は自分の話を聞いてくれるけれど、自分は彼の話を聞くことができないのだ。公人ではないから。民間人だから。

 彼のためにできることが、見つからない。

「……なあ、ユリア」

「……?」

「ちょっと借りるな」

「え? ……——っ!?」

 何を? と問いかける間もなく息を呑む。

 グランヴァルトの脚の間に収まっていたユリアの体は、彼によって軽々と真横に移動させられてしまった。その直後。眼前を金糸が流れたかと思いきや、彼の頭が太腿の上へと落ちてきたのである。

 俗に言う、膝枕。

「お前を下から見上げるの、なんか新鮮でいいな」

「グラン様を上から見下ろすの、なんだか胃がきりきりします……」

「ははっ。俺のこと見下ろせるのは、お前くらいだ」

 瞬時に転調した場の空気。彼が気を利かせてくれたのだということは、すぐにわかった。

 彼はいつも唐突だ。前振りがない。あっても一瞬。

 恋仲になるまで、当然と言えば当然だろうが、こんな人物だは思わなかった。だが、ジークやイーサンから聞くかぎり、これが本来の彼なのだろう。

 緻密さと大胆さを兼ね備えた彼に、ユリアは会うたび惹かれている。

「悪いな、心配かけて。正直、このところあまり寝ていなくてな。さっきもやらかして、休憩しようと思っていたところだ」

「お忙しいんですか?」

「いや、それほどでもない」

「そう、なんですか」

 忙しくない。この是非をいかに判断すればいいのか。

 一般的に忙しくないとは、すなわち、落ち着いているということ。よって、それはそれで喜ばしいことなのだろうと、ユリアは結論づけることにした。

 ではなぜ、窶れてしまうほどに不眠が続いているのか。

 機密事項か、至極プライベートな案件か。いずれにせよ、ユリアが気軽に触れていい事柄ではないはずだ。

 次に紡ぐ言葉を探して口を噤んでいると、彼の手がすっと頬に伸びてきた。

「……お前の目に、この国はどんなふうに映っている?」

 穏やかさに、切なさと脆さを内包した声で、彼が問う。

 先ほども確認したとおり、彼の唐突さは珍しいことではない。けれども、今の彼はいつもと様相が違っていた。

 金色の瞳の奥で、ゆらゆらと光が揺蕩する。……惑っている。

 まるで、彼の心中を反映しているかのように。

 彼の意図は不明だ。それでも、国の現状を考慮すれば、『種族』という要素がその大部分を占めていることは瞭然だった。

 正解はわからない。あるのかないのかさえ、わからない。

 両親や兄たちに比べて浅学の自分には、音楽の世界しか知らない自分には、彼の納得できる回答などできないかもしれない。

「……わたし、は……」

 それでも、飾らず口にしようと思った。自分の言葉で、一国民として、ちゃんと伝えようと。

 たとえ言葉足らずになったとしても、誠実に。

 彼が、自分に対して——国民に対して、そうあってくれているように。

「わたし、は、この国が好きです。大好きです。……もちろん、理不尽な……不条理なこともあります。まだ二十四年しか生きていませんが、何度か経験してきて……ヒトであることを理由に仕事を断られたことも、一度や二度じゃありません」

 この業界での『イメージ』は、時として歌唱力云々よりも重視されることがある。企業とのタイアップにおいて、それはことさら顕著で、ある意味すべてだ。

 ——歌はいいんだけどね。

 ——ヒトはちょっと……。

 眉根を下げた企業の担当者たちが、ユリアの脳裡に次々と浮かんでは消えていく。

「自分の努力が足りなくて仕事に結びつかないのなら、いくらでも努力します。……でも、自分の努力でどうにもならないことを求められてしまうと、もう、諦めるしかないのかなって……」

 彼らを恨んでいるわけじゃない。彼らだって、自社の利益のために、そこで働く従業員のために、天秤を傾けただけ。その選択の過程に自分が入る余地などないし、何かを訴える資格もない。

 ただただ、悲しかった。

「わたし個人じゃなく、種族を否定されたことが、ただ悲しくて。わたし自身に問題があるのなら、まだ納得できたかもしれないけど、ヒトに生まれたことは、どうすることもできないから……でも、だからこそ、歌える歌が……表現できるものがあるのかなって、思うんです」

 零れんばかりのみを、膝上のグランヴァルトに注ぐ。

 頬に触れた、インクの染みついた指先を小さな手で包み込むと、ユリアは、この日一等美しい表情でこう告げた。

「抱えた感情や生まれた想い……そのすべてを自由に表現できるこの国は、本当に素晴らしい国だと思います」

 竜人であれ、ヒトであれ、与えられる自由や権利に差異などない。そしてそれは、権力によって侵されることなどない。

 これは、まぎれもなく、彼の偉業。

 彼が民を強く想うがゆえにもたらされた、真の豊かさだ。

「十年前、貴方は、この国が進む方向を示してくれました。みんなの意識は、貴方が掲げる未来に向かって、たしかに前進しています。まだ時間はかかるかもしれないけど、わたしたち国民を、これからも見守っていてください」

 静かな、されど、凜と響く声でユリアが言った。言い切った。

 上手く伝えられた自信はない。むしろ不安しかないが、これが今自分が抱いている素直な気持ちなのだ。

 偽りのない、混じりけのない、ありのままの。

「……まったく、お前はどこまで俺を……っ」

「へ? ……わっ!」

 起き上がりざまにきつく抱き締められ、驚きと衝撃でつい間抜けな声を上げてしまった。

 次の瞬間。耳元で囁かれた、息の詰まった掠れた声に、ユリアは胸が張り裂けそうになった。

「——ありがとう」

 歯車が廻る。音もなく、噛み合い、ゆっくりと。

 腕の中の華奢なユリアが、このときのグランヴァルトには何よりも頼もしく感じられた。

 所詮理想——そうかもしれない。

 現実を見ろ——そのとおりかもしれない。

 今も国内には、自身の政策が間違っていると訴える者がいる。暴力に屈するつもりはない。微塵も。……ただ、それも民の声であることに変わりはないと、心のどこかで拭えずにいたのだ。

 だが、もう揺らぎはしない。

 自分が目指す場所は、間違ってなどいない。

 母が自分を産んだことも、全身全霊をかけて守ってくれたことも、すべては今に繋がっていたのだと、そう思えるから。

 目の前の、何よりも尊い笑顔が、教えてくれたから。


 ◆


「陛下ー、入りますよー。お嬢ー、そろそろ帰るかー、って……え?」

「あ、あ、中将、しーっ、しーっ……!」

「え、ちょっ、なに。陛下、ガチで寝てんのか?」

「ガチです。なんか、ここ最近ずっと眠れてなかったみたいで」

「膝枕で? どんくらい?」

「一時間くらい、かな。風邪引いちゃいけないと思って、わたしのストール掛けさせてもらって……ほんとは、ベッドから毛布持ってきたかったんですけど、動けなかったから」

「毛布毛布、っと。……ほい。そんな長時間ずっとじっとしてたのか?」

「あ、ありがとうございます。……あ、いえ。本読んでました。いつもだいたい持ち歩いてるので」

「……長いこと仕えてっけど、陛下のそんな安心しきった顔、俺初めて見たわ」

「そうなんですか?」

「ああ。立場が立場だからな。眠りも浅いほうだと思うんだが……やっぱ特別なんだな。お嬢は」

「!」

「照れんな照れんな。太腿、だるくないか?」

「あっ、はい、大丈夫です」

「そか。これは一部下としての頼みなんだが、できるなら、あと三十分だけそのままでいてくんねぇか?」

「え?」

「そんだけ熟睡できることなんて、お前さんと一緒でもなきゃほぼ無理だろうからな。さすがにそれ以上は延長できねぇから、三十分経ったら起こしてくれ。俺は下にいる」

「わかりました。……中将っ、あの……」

「ん?」

「ありがとうございました、本当に」

「気にすんなって。来てよかっただろ?」

「……はいっ」

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