Dreamboat(1)
理想と現実。
人間は、前者を追求し、後者に打ちのめされる。長きに渡る歴史の中で、古より存在する最も普遍的な精神の
誰かが言った。所詮理想だ、と。
誰かが言った。現実を見ろ、と。
完全一致など叶わぬ
誰かが善として掲げた理想も、誰かにとっての悪となる。理想のために誰かが傷つき、誰かの大切なものが奪われる。
それでも不可能なのだ。人間には。
理想を持たずに生きていくことなど。追求せずに死んでいくことなど。
誰がためではなく、己がために。
己が魂を、守るために。
◆ ◆ ◆
悪路をひた走る一台の高級大型車。
圧倒的な存在感を放つそれは、上下に激しく振動しながら、鬱蒼とした木立の間を進んでいく。
急勾配をものともせず、抉るように車輪を回す。四本すべてに駆動力を与えるこの車は、まさに今、有する性能を余すところなく発揮していた。
「っし。ここまで来ればもう大丈夫だろ。……待ってろ、お嬢。すぐに車止めっから」
帝都からおよそ三時間。山の中腹に差しかかったあたりで、車はエンジンをつけたまま停止した。ルームミラー越しに言葉がかけられるも、後部座席に人影はない。
イーサンは、いったん運転席から降りると、車体の後ろへぐるりと回り込んだ。
大きな車体に相応しい巨体。いつものオールバックとは異なり、緋色の目に灰色の前髪が垂れかかっている。
隆々とした筋肉の輪郭を強調するような黒いカットソー。迷彩柄のカーゴパンツに、カジュアルなコンバットブーツ。上から下まで、見事なプライベートスタイルだ。
後部座席よりもさらに後ろ、ラゲッジスペースの扉を開けると、彼はそこに収まっている人物に向かって手を差し出した。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
大きな熊の手を取ったのは、小さな歌姫。彼より四十センチも身長の低い、ユリアだった。
ふわもこの黒いプルオーバーニットに黒いベレー帽。灰色のフレアショートパンツから覗く足は、厚手のタイツでばっちり防備されている。
そして、華奢な肩には、紳士用のストール。こちらも見事なプライベートスタイルだ。
イーサンは、ユリアの手を掴んで体を引き寄せると、ひょいと持ち上げ地面に降ろした。
「どうだった? 初めての荷室は」
「乗り心地は悪くなかったです。広かったから。……でも、すっごいドキドキしました」
「言っただろ? ぜってーバレねぇから心配すんなって」
「ライブより緊張した……」
「あははっ!」
喉元に上がってきた心臓をどうにか押し戻し、ユリアは後部座席へと移動した。イーサンも運転席へと戻り、アクセルをふかして再度目的地を目指す。
小さな歌姫と大きな熊。もちろん互いに面識はあるし、親しい間柄ではある。一緒に食事をしたこともあるし、彼のこの愛車に乗ったこともある。
けれども、こんなふうにふたりきりという状況は珍しい。ともすれば、初めてかもしれない。
「すみません、中将。せっかくのお休みなのに」
「気にすんな。もとはと言えば俺が言い出したことだし、ぶっちゃけただのお節介だから」
ルームミラー越しにイーサンが笑う。お馴染みの少年然とした相貌に、つられてユリアも破顔した。
ある意味異様とも言えるこの場景。何がどうなって、ここへと繋がったのか。実はユリアも把握しきれていない。
この日の午前中。ユリアは、シンシアにヘアカットを施してもらっていた。
ユリアは、同じく事務所に所用があるというアミルに、一方のシンシアは、ちょうど休暇中だった兄のイーサンに、それぞれ事務所まで送ってもらった。
事務所にイーサンがいるということに新鮮さを覚えつつ、和気あいあいとした会話を取り交わしながら、一時間ほどでカットは終了。
その直後。
シンシアの鋏が次に標的としたのは、アミルだった。久々に会った彼の、伸びに伸びた髪が、とにかく気になって仕方がなかったらしい。
その一部始終を見ていたイーサンは、アミルに対し、妹を託す代わりにユリアを引き受けることを提案した。
とある腹案を持って。
「一時半か……そこそこいい時間に着きそうだな」
針葉樹と広葉樹が密生した道を、減速することなく進んでいく。舗装は乏しいが、順調に走破できそうだと、イーサンは安堵の溜息を漏らした。
ふたりが目指している場所——それは、グランヴァルトのコテージだ。
「もう隠れなくても大丈夫ですか?」
「ん? ああ。下の連中にバレるわけにはいかねぇけど、上にいるのは陛下直属の従者ばかりだからな。陛下とお前さんの関係は、全員知ってる」
ユリアがラゲッジスペースに隠れていたのは、麓で警護にあたっている衛兵たちに見つからないようにするため。イーサンは「ぜってーバレねぇから」と自信満々に言い切ってくれたものの、彼らの姿が見えなくなるまでは気が気でなかった。
が、彼らも、まさか私服姿のイーサンが現れるとは思っていなかったようで、すんなりと秒で通過できてしまったのである。もちろん顔パスで。
「……あ、あのっ」
揚々とした表情のイーサンに、ユリアが声をかける。ルームミラーに映った蒼い瞳は、憂いに沈んでいた。
「どした?」
「ここまで連れてきてもらって言うのも……なんですけど、本当にわたしが行っても大丈夫ですか? その、邪魔になったりしませんか?」
いつもの賑やかさは鳴りを潜め、いささか悄然としたユリアの声が車内に垂れ込めた。
イーサンから提案されたこととはいえ、自分は彼を巻き込んでとんでもないことをしようとしている。
グランヴァルトに会えることは嬉しい。非常に嬉しい。だが、時勢を見れば、素直に喜ぶことはできなかった。
彼の置かれている状況は、ある程度推し量っているつもりでいた。マスコミの報道や父の様子をもとに。……けれど、まさか帝都を離れていたなんて思いもしなかった。離れざるを得ないほどの危難が、彼のすぐ傍まで差し迫っていたなんて。
彼が成し遂げようとしていることの重大さ、そして、皇帝という立場の危うさを改めて痛感する。彼のためになる術を、彼の助けとなる術を、自分は何も持ち合わせていないのだ。
そんなユリアに、おおらかな口ぶりでイーサンが告げる。
「陛下だって、二十四時間ずっと公務してるわけじゃねぇよ。息抜きだって必要だし、プライベートな時間だってあって然るべきだろ? ……まあ、なんつーか、邪魔になるかどうかは、正直判断できねぇ。けど、間違いなく陛下のためになることを、俺はやってる」
「え……?」
「陛下にとってお前さんは特別で、お前さんの代わりはいねぇってこと」
沈黙が、ふわりと落ちる。
優しく諭すようなイーサンの言葉に一瞬固まるも、ユリアはすぐさま顔を伏せた。耳元が赤い。肩も窄んでいる。どうやら照れてしまったようだ。
その様子を確認したイーサンは、ふっと笑って目を細めた。今のユリアに、自身と付き合い始めた頃の妻が重なる。戸惑いながらも綻んだ顔。恋にきらめく瞳。初々しさのなんと眩しいことか。
「……二年前の俺の勘は当たってたってこったな」
「え? あっ、ごめんなさい。聞こえなかったです」
「いや、なんでもねぇ」
二年前のサミット翌日。ジークと行ったやり取りが、イーサンの脳裡につぶさに蘇る。
あの時、妹を溺愛する後輩をからかう意図で仮説を突きつけた。可能性がまったくないとは思わなかったが、まさか本当に恋人関係に発展してしまうとは。
正直かなり驚いた。ひょっとしてひょっとしてしまった。
はたしてこれが正しいことなのか……智勇兼備の名将であるイーサンにもわからない。でも、それでも、ふたりの関係を否定するようなことはしたくなかった。
「また適当な時間に迎えに来っから。全然足りねぇとは思うが、時間いっぱい話すといい。きっと喜んで聞いてくれる」
「はい。……ありがとうございます、中将」
芽生えてしまった想いの尊さを、育ってしまった想いの気高さを、彼は知っている。
◆
「……っあー、マジか」
ゴトンッ、という鈍い音がするやいなや、グランヴァルトは天井を仰いだ。
テーブルの上には、転がったインク瓶。すぐさま起こしたものの、中身の半分ほどが流出し、書類を一枚潰してしまった。サインをしている最中、手元が狂って倒してしまったのだ。
「悪い。またやっちまった」
布巾片手に駆け寄ってきた従者に謝罪する。実はグランヴァルト、書類を黒浸しにするのは本日これで二度目。この一時間で、通算三枚をインクの海に盛大に葬り去っていた。
本人も従者も、原因はわかっている。
ひとことで言えば、睡眠不足だ。
すでに従者のほうから、「少しお休みになられては?」という提案は何度かなされている。いつも尻を叩いている彼らでさえも心配するほどの睡眠不足。疲労の蓄積は、火を見るよりも明らかだった。
これに対し、「大丈夫」「あとちょっと」と紙面と睨み合っていたのだが。
「次もやらかす可能性あるな……」
二度あることは三度ある。さすがにこれ以上書類を没にはできないし、インクを無駄にもできない。彼らの余分な仕事を増やすことも。
雑草の根っこを引っこ抜くように椅子から腰を持ち上げると、グランヴァルトはいったん執務室をあとにした。指先に付着した黒を眺めながら手洗い場を目指す。完璧に落とすことは無理だと承知しつつも、石鹸を泡立ててみることにした。この動作も、数十分前に行ったばかりである。
……頭が重い。俯けば、鈍い痛みが
「……まずいな」
正面の鏡面に映る、自嘲するかのごとき薄笑い。
ここへ来てからおよそ二週間。すなわち、まともに睡眠をとることなく二週間が経過した。体を休める時間があるとはいえ、ほとんど深い眠りについたことはない。あえて避けてきたのだ。夢を見ないように。
体力に自信がないわけではない。けれど、いよいよ限界が近づいている。寝るか否かはひとまず横へ置いておいて、彼らの提案を受け容れるとしよう。
そう観念した直後のこと。
「……ん?」
執務室へと戻る道すがら、突然外が騒がしくなった。いつもとは異なる空気が、建物の中にまで伝わってくる。
ここへ来て初めての喧騒。周りが静かすぎるゆえに、数人の声でも増幅して聞こえる。だが、不思議なことに、まったくと言っていいほど嫌な感じはしなかった。事実、争っているような気配もない。
いったい何が起こっているのだろうか。……来客? いや、そんな予定は聞かされていない。
一刻も早く状況を把握しようと、玄関前の廊下を横切った。
そのとき。
「おっ、ナイスタイミングですね」
「……イーサン?」
屋外で控えていた従者に招き入れられた、見慣れた巨漢に小首を傾げる。外で喧騒を引き起こしていた台風の目は、なんと腹心のひとりであるイーサン・オランドだった。
なにゆえ彼がこんな山奥へ? 事前の連絡も寄越さず。しかも私服で。
超高速で思案を巡らせた結果、グランヴァルトはイーサンに対し、つい訝しげな視線を浴びせてしまった。
「おっと。そんな顔なさってよろしいんですか?」
「いや、普通するだろう。なんでお前がここにいるんだ。……まさか、帝都から俺に何か面倒事を運ん——」
「おーっと、それ以上は仰らないほうがよろしいですよ。まあ、俺はべつに構いませんが」
「?」
「ほら、お嬢。こっちこっち」
「お嬢? ……っ!?」
イーサンの後ろからおずおずと現れた愛しいその姿に、グランヴァルトは目を剥き、息を呑んだ。
ベレー帽から伸びるプラチナブロンドの髪。まるで雲外の蒼天のように深い瞳。この一年、会いたいと切望し続けた人物が、目の前にいる。
「ユリ、ア……?」
グランヴァルトに名前を呼ばれたユリアは、一瞬ぴっと背筋を伸ばすも、まごついた様子でぺこりと頭を下げた。
どうやら台風の目は、イーサンではなくユリアだったようだ。
「俺が帝都から運んできたのは彼女ですが……これが面倒事に見えますか?」
「でかしたイーサンお前の今度の賞与は弾む」
息継ぎをすることなく真顔でこう宣った主に、イーサンは思わず吹き出した。これが冗談であることや、そもそも彼ひとりにそんな権限がないことくらいわかっている。
ユリアは気づいていないだろうが、グランヴァルトの喜びようはかなりのものだ。それは、従者たちも容易に感取できていた。
彼の中での彼女の存在は、相当大きいらしい。
「じゃあな、お嬢。またあとで」
「ん? お前帰るのか?」
「いえ。ついでと言ってはなんですが、久々に近くの知人と会ってきます。こんな機会でもないと、なかなか会えないんで」
近くと言っても、ここから麓の一番近い町まで一時間はゆうにかかる。どちらが『ついで』かわからないが、ユリアは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「すみません、中将、本当に……ありがとうございます」
「気にすんなって。……ごゆっくり」
ぽっと照れたユリアに笑みを投げかけると、イーサンは踵を返した。さくさくと芝生を踏みしめ、車のほうへと足を運ぶ。
「あー」
ふっと笑って、
「若ぇなあ」
ぽつりと零す。
誰もが知る、まさに時代を象徴するかのようなふたり。
難しく考えようとすれば、いくらでもできてしまう。感情を殺し、理論づければ、答えはあっさり出るのかもしれない。……が、それはあまりに野暮というもの。
並んだふたりの眩しい情景。
透明な輝きに満ちたあの表情だけで、今はじゅうぶんだ。
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