yellowbird(2)

 ユリアとアンジェラがティータイムを過ごしている最中、玄関ベルの重厚な音が鳴り渡った。

 互いに疑問符を交差させ、顔を見合わせる。「いったい誰が」と、予期せぬ事態に首を傾いだ。

「今日って、誰か来る予定あった?」

「ない、と思うけど……」

 適当な人物を順に浮かべながら、アンジェラは立ち上がった。宙に視線で弧を描く。が、思い当たる人物は見つからない。

 とりあえず確認をと、部屋を出るためドアノブに手をかけた。

「……あ! わたしが出る!」

 とたんに、カチャンッとカップを置いたユリアが立ち上がった。呆気にとられる母をよそに、勢いよく部屋を飛び出す。

 ……忘れていた。今の今まですっかり失念していた。一週間前に連絡を受けたばかりなのに。

 廊下をドタドタと走って玄関ホールへ。扉の横、磨りガラス越しに映るスレンダーなシルエット。その優美さを視認するやいなや、ユリアは相好を崩した。

「いらっしゃい!」

 その人物とは——

「こんにちは。相変わらず元気そうで安心したわ」

 ——ユリアのマネージャーであるミト・ギャレットだ。

 遡ること一週間前。ユリアのもとに、ミトから連絡があった。内容は、体調や近況等とくに変わったことはないか否か。また、社長のヴォルターが気にかけているため、一度様子を見に自宅を訪ねてもいいか否か、という一点。

 そろそろ家族以外の誰かと直接会いたいと思っていたユリアは、この申し出をふたつ返事で承諾した。嬉々として承諾した。のに。

「……ひょっとして、私が来ること忘れてた?」

「えっ!? なんっ……」

「私が来るとき、いつも庭に出てお出迎えしてくれるじゃない?」

「!?」

 そう。ユリアは、来客があると事前にわかっている場合(時間や天候にもよるが)、たいていは庭に出てお行儀よく待っているのだ。さながら犬のように。

 自分が一緒に家に入れば、相手にドアベルを鳴らす手間を省かせ、かつ、待たせずに済む——という、ユリアなりの地味な気遣いなのだが、今日はそれが叶わなかった。ミトの言うとおり、忘れてしまっていたから。

 自分の間抜けさ加減に辟易する。

「ごめんなさい」

「いいのよ。気にしないで。はい、これ」

 落ち込むユリアに、ミトがあるものを差し出した。シックでお洒落なデザインの紙袋。馴染みのスイーツ店の紙袋だ。

 目をぱちくりとしばたかせるユリアに、ミトが続ける。

「社長からよ。『甘いモン食って曲作りに励んでくれ』ですって。……で、こっちは私から」

 そして、さらに紙袋の口を広げ、ケーキの箱の横に並んだ、あるものを示した。

 それは、書店のオリジナルカバーが施された一冊の本。

「まさかこれって……」

「そうそう。あなたがずっと読みたいって言ってた小説」

「すごい! どこ探しても見つからなかったのに!」

「運が良かったのよ。家の近くの書店で偶然見つけて、急いで手に取ったわ」

「ミトさん……!」

 ユリアの顔が、春色に咲く。「今日も背後に後光が見える」とミトに告げれば、「どういうこと?」と笑われてしまった。

 ふたりからのプレゼント、そこに込められた心に、ユリアはほくほくと喜んだ。感謝の嵐とともに玄関ドアを開け、ミトを家へ招き入れる。

「……あ、そうだ。ちょっとご相談なんですけど、しばらくお仕事ないから、少し髪の毛切りたいなって思ってて……どうですか? だめ?」

「あら、どのくらいまで切りたいの?」

「腰上くらい。シンシアちゃんになかなか会えないから、手入れ大変で」

「……ってことは二十センチくらい切りたいってことね。いいわよ。事務所で切ってもらう?」

「え、いいんですか?」

「ええ。シンシアさんには、近いうちに私から連絡入れておくわね」

「ミトさん……!」

 本日二度目の後光に目を細める。敏腕マネージャーが眩しい。眩しすぎる。

 崇め奉らんばかりに謝意を伝えると「紅茶を用意してくるからリビングで待っててください!」と言い残し、ユリアはダイニングへと戻っていった。

「元気ねー」

 嬉しさを余すところなく放出する小さな背中に、おのずと破顔する。

 シュトラス邸の玄関を開けるとすぐ視界に入る絵画。夫に依頼された妻が描いたという特別なそれに、もう何度目かの感動を覚え、ミトは爪先をリビングへと向けた。

 アンジェラの絵画——それは、ミトにとって、まさに『光』であった。

 帝国が誇るスーパーモデルとして活躍していたミトは、人気絶頂のさなかにありながら、二十七歳で引退した。本番前のリハーサルで、転倒したスポットライトが背中に直撃し、大きな火傷と裂傷を負ってしまったためである。

 事故直後の記憶はない。手術後、病院のベッドの上で彼女を待ち構えていたのは、灼けるような激痛だった。

 それからの毎日は地獄。——地獄、地獄、地獄。

 初めて背中の傷痕を見たときは、本気で死ぬことすら考えた。

 生きる気力を失い、涙さえも涸れ果てた。

 そんな折。

 ふらりと立ち寄った芸大主催の絵画展で、アンジェラの風景画に出会った。

 キャンバスいっぱいに彩られた花鳥風月。光の下で躍動する生命の流れ。中でも、空や海や川といった『あお』を使った独特の世界に、たとえようのない感動を覚えた。

 ——涙が、流れた。もう少し、あと少し、生きてみようと思った。

 それからほどなくしてヴォルターと出会い、ユリアのマネージャーの話が巡ってきたのだが、縁とはつくづく不思議なものだと実感した。

「ミトさーん! ストレートで飲みますかー? それともミルクー?」

「ストレートでお願いするわ」

「……苦いですよ?」

「大丈夫よ。苦みも渋みも好きだから」

 ダイニングから飛んできたユリアの質問に答えれば、「大人だあ」という、感心しているのか嘆いているのかよくわからない独り言が聞こえてきた。底なしの愛嬌に、思わず苦笑を漏らす。

 あれから十年。

 自分はまだ、生きている。





 ◆ ◆ ◆





「暇だ……」

 梢の間から覗くひつじ雲。本当に羊の群れみたいだなどと思いながら、グランヴァルトが呟いた。少しばかり季節が秋へと傾いただけで、どうしてこうも侘しく感じられるのだろう。

 高度の下がった太陽の光が、ここ執務室にじんわりと滲む。絨毯の上にできた蜜柑色の日溜まりに目を細めると、ぽてんっとソファに横たわった。

 公務をさぼっているわけではない。定期的に部下が仕事を運んでくるのだが、宮殿でのおよそ半分以下の時間で完遂できてしまうのだ。いかにあちらでの言動に無駄が多いか……もちろん自覚はしているけれど、鬱陶しいので黙っている。

「庭木の剪定でもするか?」

 あまりにも暇すぎるので、こんな発言で戯れてみれば、

「……冗談だって。察してくれ」

 傍に控えている一等古株の従者にジト目で睨まれた。世話を焼かせること早十年。「貴方ならやりかねない」との無言の圧を感じる。

 二十余年ぶりのこの場所は、相変わらず退屈だった。

 帝都から車でおよそ三時間。山の中腹、森の中にひっそりと佇むこのコテージが、グランヴァルトが所有する別荘だ。

 石造りの二階建てで、赤と黒と茶をバランスよく配色した、なんとも古典的クラシカルな外観。すぐ近くには大きな湖があり、手つかずの自然が自由に、豊かに、息づいている。

「なあ、ちょっとだけ部屋に戻ってきてもいいか? ……そんな顔しなくても何もしないって。外行ったりもしないから」

 ジト目を崩さない従者に真情を訴えてみる。一蹴される覚悟で拝んでみれば、意外にもあっさり承諾してくれた。どうやら、ここへ来てからの真面目な仕事ぶりを評価してくれたようだ。

 夕食時まではどうぞご自由に、との彼の言葉を背に、グランヴァルトは二階にある自室へと向かった。

 クォーツ式の天文時計が、午後三時を告げる。

 ホール脇。曲線が美しいサーキュラー階段を上り、廊下を東へと進む。眼下に広がる深い森を横目に、突き当たりの自室を目指した。

 そこは、グランヴァルトが、生まれてから宮殿に移り住むまでの十二年間を、実際に過ごした場所である。

「すげーいい天気……」

 南向きの室内は、太陽の匂いに満ちていた。

 しっとりとした足触りの絨毯を踏みしめ、部屋の片隅へ。そのまま倒れ込むようにベッドに沈めば、とたんに睡魔が襲ってきた。

 仮に眠ってしまったとしても、何ら問題はない。今は自由時間だ。

 だが、できることなら意識を保っていたかった。ここへ来てからというもの、グランヴァルトは眠るのが嫌で仕方がない。もともと睡眠時間はそれほど長くないため、寝ずにいることに抵抗はないが、この状態が続けば体に支障をきたすという自覚はある。

「この歳になって、昔のことを夢に見るようになるとはな……」

 自嘲気味に独り言つ。公にはされていない帝室の惨劇。そこに絡まる自身の生い立ちが、陽帝と呼ばれる彼の心に翳りを落とした。

 今から三十五年前。

 グランヴァルトの母——ベガは、この場所でグランヴァルトを出産した。頼れる身内も知人もいない中、十八歳という若さで。

 前皇帝には、正妻である皇后以外にふたりの妻がいた。ベガはそのふたり目——いわゆる第三夫人であった。

 皇后以外の妻に求められることはただひとつ。皇帝との間に、ひとりでも多くの子を成すことだけ。それも、保険として。

 前皇帝は、皇后との間に男児をひとり、第二夫人との間に双子の女児をもうけていた。順当にいけば、皇后との間に生まれた男児が帝位を継承する……はずだった。

 それは、グランヴァルトが生まれる二年前のこと。

 生まれつき体の弱かった男児は、わずか三歳で命を落とした。

 皇后は、失意のあまり、当時身ごもっていた第二子を流産。声が嗄れるまで泣き叫び、哀しみと焦りで心を病み、嫉妬に狂い、そして——。


 ——皇后陛下、何を……っ!!


 あろうことか、第二夫人との間に生まれたばかりの双子に手をかけ、そのうちのひとりを殺害したのである。

「……」

 幼い母が、帝都の大病院ではなく、医療設備も不十分な山奥での出産を余儀なくされた理由。さらに、宮殿ではなく、そのままここで暮らすことになった理由。

 すべては、生まれてくる子どもを——自分を、守るためだったのだ。

「……母上」

 紙にインクを垂らすように、懐かしい呼び名を滴下する。瞼を閉じれば、楚々とした花のような姿が脳裡に蘇った。

 美しい母だった。優しい母だった。自分の前では、いつも笑っていた。

 母が宮殿に戻ることは、ついにはなかった。

 母が亡くなった一年後。皇后が崩御したとの報せを受け、ひとり宮殿に戻った。そこで待っていたのは、それまでまともに口も利いたことのなかった父との生活だった。

 十六で嫁ぎ、十八で出産し、二十九でこの世を去った母。病に伏してもなお、自分に「愛している」と伝え続けてくれた母。

 歳を重ねれば重ねるほど、母の受けた仕打ちが、母の置かれた環境が、どれほど過酷なものだったかということを思い知らされる。

「……っ、母上……」


 貴女は、俺を産んで——幸せでしたか?

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