yellowbird(1)
熱く乾いた風が渡る。
砂塵を巻き上げながら、赤とも白ともつかぬ荒野を延々と。
太陽が頂点に届いた、雲ひとつない青空の下。点在する雑草や低木の間に、数名の竜人の姿があった。彼らは、ある対象をじっと見つめ、一様に険しい表情をしている。
その中のひとり——赤いターバンと灰黒色の民族衣装を身につけた青年——が、おもむろに対象へと近づいた。
しゃがみ込み、その整った顔を、さらに歪ませる。
「先刻、巡回していた部隊が発見したそうです。おそらく、キビル・アインから脱走してきたものと……」
背後から、青年の従者が状況を簡潔に説明した。キビル・アインとは、ここからもっとも近い場所にある都市。中心部に大きな泉の湧く、いわゆるオアシスだ。
彼からの説明と眼前の場景から、青年——ファルクの立てた仮説は、確信へと変わってしまった。
「富豪の屋敷から逃げてきたのか」
低木に凭れ掛かるようにして力尽きた、ヒトの少女。服や装飾品は、すべて高級品だった。
「今ごろ必死で探しているでしょうか?」
「いや。ペットが一匹いなくなったくらいで奴らが騒ぐことはないだろう。……代わりはいくらでもいるからな」
忌々しそうにこう吐き捨てると、ファルクはすっと腕を伸ばした。そうして、色を失った少女の瞳を、そっと上瞼で覆ってやる。
布から見える肌理細やかな四肢に施された、繊細で華やかな黒い刺青。大輪の花や孔雀の羽根をモチーフにしたそれは、少女の肌を指先から関節までびっしりと埋め尽くしていた。一流の彫物師による、まごうことなき芸術品。
少女は飼われていたのだ。金持ちの驕慢な竜人に。ペットとして。——奴隷として。
「どうなさいますか?」
「攫われたにしろ、身内に売られたにしろ、公にすることはできない。身元を調べてから弔ってやれ。……丁重にな」
「御意」
従者に指示を出し、ファルクは踵を返した。
ここからキビル・アインまで、『砂漠の船』に乗っても三十分はゆうにかかる。人間の……それも、少女の足で、いったいどれだけの時間をかけてここへ辿りついたのか。この熱砂の上を。飲まず食わずで。
それほどまでに、逃げ出したかったのだ。
自由を、人間としての尊厳を、取り戻したかったのだ。
「……っ——」
握り締めた拳の内側で、爪が掌に食い込んだ。口内に、血の味が広がる。
一生消えない刺青は、『所有』の証。仮に主人から逃れられたとしても、証があるかぎり、この国での社会復帰は望めない。
主人に捨てられたら終わり。おてつきゆえに、次の主人も見つからない。
……愚かだ。実に愚かで、嘆かわしい。
変わっていないのだ、この国は。十八年前と、何ひとつ。
「このままではだめだ」
他国に比して劣っている現実を、まざまざと思い知らされる。きっと、ガルディアや
力が欲しい。この国を揺るがすほどの力が。翻転させられるほどの、強い原動力が。
「……この国のためなら、私は悪魔に魂を捧げることすら厭わない」
静かな、されど、堅固な意志。
それは、誰の耳にも届くことなく、茫漠とした砂海の
◆ ◆ ◆
「はあ……」
溜息が、
ベッドの上に
「あー……」
なかば唸るように息を吐き、ユリアはベッドに横たわった。一時間ともに粘ってくれたギターを抱え込み、シーツに身を沈める。
公演を終えて、ひと月が経った。
太陽は低くなり、日増しに秋の気配が近づいている。日中は汗ばむ陽気だが、それでもかなり過ごしやすい。湿気を孕んだあの暑気が嘘のようだ。
「みんな今ごろ何してるんだろ」
ひとりの時間が増えた今、常に頭に浮かぶのは、大好きなみんなの顔。
メンバーやスタッフには、あれから一度も会っていない。メンバーとは、数日おきに連絡を取り合っているので、元気にしているのは知っている。けれど、顔は見ていない。
ほぼ毎日会っていた彼らと、こんなにも会えない日が来るなんて、思いもしなかった。
外出を完全に制限されているわけではない。公共の交通機関を利用することや、人が多く集まる場所に行くことは制限されているが、そもそもユリアはそのどちらとも縁遠い生活を送ってきたため、これらに関して何かが変わったわけではない。
ただ、世情を勘考すると、以前のように気軽に外で会おうという思いには至れなかった。家にいる時間が激減した父を間近で見ていると、なおさら。
「……」
ギターから体を剥がし、ころんと寝返りを打つ。飾り窓の向こう側には、真っ青な秋空を流れていく真白い雲が見えた。
自然は変わらず悠々と流れていくのに。
人間は、狭い世界で不毛な争いを繰り返している。
「グラン様に会いたいなあ……」
ぽつりと零した、愛おしい人の名前。自分の口から発したそれを耳から聞いたことで、一気に想いが込み上げてきた。硝子に反射する光にさえ、彼の姿を重ねてしまうほどに。
けっして軽々しく会えるような人ではない。会いたいと思うことさえ
彼は、この国の皇帝なのだから。
「どうして、わたしなんだろう」
ユリアと会うたび、彼は嬉しそうに笑ってくれる。他愛のない話に付き合ってくれる。
そっと髪に指を絡ませてくれる。何度もキスをしてくれる。
優しく、抱いてくれる。
「……っ」
いろいろと思い返して顔が火照るのはお約束だが、今まで誰かとこういう関係になったことがないので仕方がない。初めてなのだ、なにもかも。
なぜ自分が彼の隣にいられるのだろうか。有り体に言えば、『彼にはもっと相応しい人物がいるはず』なのだが、それでも彼は自分を選んでくれた。貴族ではない自分を、竜人ではない自分を、選んでくれたのだ。
こんな自分が、彼の隣にいることを許されているのが不思議でたまらない。
……許されている? 本当に?
「……あー、だめだっ!」
何かを弾き飛ばすように、ユリアは勢いよく上体を起こした。
ずっと自粛生活を続けているせいも相俟って、どうしても思考が暗いほうへと傾いてしまう。ポジティブに徹しているわけではないが、こんなふうにぐるぐるする自分は嫌いだ。
両頬をペチンッと叩いて気合い一発。眉をきりっと上げて立ち上がる。
「何か飲もう」
こういうとき、ユリアは決まって何かを口に入れるようにしていた。おもに作業が煮詰まったとき。好物を食べたり飲んだりすれば、それだけでいい気分転換になる。
階下には、母がいるはず。
母を誘ってティータイムにしよう。そう画策し、軽快な足取りで自室をあとにした。
一階には、キッチンやバスルームを除いて、4つの部屋がある。迷った結果、ユリアはあの部屋へと向かうことにした。そこは、いわゆる作業部屋で、おもに母が絵を描く場所だ。
あたたかみのあるウォールナット材のドア。コンコンとノックをすれば、中から「はいはーい」と軽妙な返事が返ってきた。娘の読みは的中したらしい。
「入ってもいい?」
「いいわよー」
母——アンジェラの了承を得て、入室する。開扉したとたん、混ざり合った絵の具の濃い匂いが、ユリアの鼻を刺激した。
「何してるの?」
スキップ混じりで母に近づき、背後からひょこっと覗き込む。もちろん彩色を施していることはわかるので、明かりを遮らないよう注意しながら。
「……カード?」
「そうそう。最近みんなに会えてないからね。グリーティングカード、送ろうと思って」
机の上のカードは全部で五枚。すべて元同僚に宛てられたもので、それぞれに違う絵が添えられてあった。
芸術大学で教鞭を執っていただけあり、アンジェラの腕前はまさに一流。専門は写実的な風景画だが、ポップなものからファンシーなものまで、なんでもござれだ。
秋だからだろうか。この日は、ポップな絵柄の木の実や葉っぱを、アースカラーでシックに纏め上げていた。
ひとことで言うと、
「めっちゃ可愛い」
「あら、ありがと」
目をきらきらさせながらカードを見つめるユリア。そんな娘に対し、母が嬉しそうに応える。物心ついた頃からずっと、娘は母の描く絵が大好きだった。
芸術大学を卒業したアンジェラは、そのまま大学へと残り、学生を指導する傍ら自身も創作に打ち込んだ。何度も大きな賞を受賞し、個展を開いたことも多数ある。
結婚・出産後も、子育てをしながら働いていたのだが、今から十二年前、やむにやまれぬ事情により依願退職した。
ユリアが、闘病していた折のことである。
「何か用だった?」
「あ、うん。一緒にお茶どうかなって思って。作業止めても大丈夫?」
「私は大丈夫だけど……曲作ってたんじゃないの? もしかして煮詰まっちゃった?」
「……うん」
「あははっ。まあ、そんなときもあるわよね。行きましょ。紅茶淹れたげる」
「あーんっ、ありがとうお母さん!」
がばっと抱きつき、母の首元にぐりぐりと顔を擦りつける。「やめてよ、立ち上がれないでしょ」と漏らしつつ、母もまんざらではなさそうだ。
いくつになっても母は母で娘は娘。甘えたいし、可愛がりたい。
先に退室した母のあとを娘が追う。
「……」
ドアを閉める前、ユリアはふと後ろを振り返った。今しがた母が作業していた机、その上に置かれたカードと画材に、きゅっと唇を引き結ぶ。
母から仕事を奪った罪悪感が、胸の中でずきずきと疼く。あのとき、自分が病んだりしなければ、母は仕事を辞めずにすんだのに。
「あ、ユリア。ちょっと換気したいから、そこ閉めずに開けといて」
「……え? あ、わかった」
改めて口に出したりはしない。「わたしのせいでごめんなさい」って。「病気になったりしてごめんなさい」って。言えば、母は悲しい顔をするから。あのとき退職してなかったら絶対に後悔してた——そう、悲しく笑うから。
自分にできることは、ただひとつ。歌を歌うことだけ。
「ごめんなさい」のかわりに。「ありがとう」のかわりに。
歌うことだけだ。
◆
「ストレートで飲む? それともミルクティーにする?」
「お母さんは?」
「私はストレート」
「じゃあ、わたしもストレート」
「いいの? 甘めにしなくて」
「いいの。甘めにしなくて」
「ふーん」
「なに、その顔。紅茶はそのまま飲めるもん。コーヒーは苦手だけど」
「お子ちゃまねぇ」
「うるさいなあ、もう! 苦手なだけで飲もうと思ったら飲めるもん! 美味しく頂けないから、あえて飲まないだけだもん!」
「はいはい。可愛いわね、あんたはほんとに」
アンジェラの嘲弄に、ユリアが火を噴いた。「きーっ!」と、今にも汽笛のような音を発しそうな様相である。
とはいえ、アンジェラの「可愛いわね」は、文字どおり「可愛いわね」なのだ。娘のことを心底可愛いと思っているがゆえの言葉。『目に入れても痛くない』とはよく言ったものだと、古人の心の高さに感心する。
「この紅茶、ロナードが送ってくれたのよ」
「え? そうなの?」
「近所に専門店ができたんですって」
「へー。お兄ちゃんって、贈り物のセンスめっちゃいいよね」
注がれた紅茶の香りを嗅ぐ。「わっ、いい香り」と、ものの数秒ですっかり機嫌を直したユリアに、アンジェラはますます愛おしさを募らせた。
真っ直ぐ育ってくれたと思う。厳しく、ある意味残酷な世界に身を投じているにもかかわらず、歪むことなく、すれることなく。
だが、ただ純粋に、綺麗なものばかりを見て育ってきたわけではない。娘の書く詞を見ると、無常感や孤独感といった誰もが抱える心の陰を、はっきりと表現しているのだ。
デビュー間もない十代半ばの頃。初めて書いたという歌詞に、母は衝撃を受けた。この子には世界がこういうふうに映っているのかと、その感受性の強さを心配したこともある。
けれど、それらを繕うことなく、はっきりと表現した上での前向きな歌だからこそ、人々に——とりわけ多感な時期を生きる若者たちに——深く刺さるのだろう。
「……ちょっと苦い?」
「そんなことないわよ。だからミルクティーにすればよかったのに」
「うー……ごめん、お兄ちゃん」
「はいはい。今からミルクティーにしてあげる」
人は脆くて儚い、だけど、強いのだと。
強さは、優しさなのだと。
命の大切さを知る娘の歌が、ひとりでも多くの『悩める誰か』に届けばいいと、母は願っている。
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