immature

 飛び散った果肉が、べちゃりと落ちた。

 果汁と唾液にまみれた、どろどろのテーブルクロス。鮮やかで美しいはずのそれは、たった数分で本来の価値を失った。べちゃり、ぼたりと、今なお現在進行形で汚染されつづけている。

「ん、もうない。……おい! 食べるものがなくなった! マアムール! 次はマアムールを持ってこい!」

 いまだ咀嚼中のものを撒き散らしながら、ラムジは女中たちに命令した。パパイヤ、マンゴー、バナナ、パイナップル……果物という果物を貪り尽くしてなお、今度は焼き菓子を卑しく所望する。

 汚い。

 とにかく口汚い。

 それでも、女中たちは嫌な顔ひとつしなかった。表情を歪めることさえしない。もちろん口ごたえなどいっさいしない。そんなことをすればどうなるか、彼女たちは痛いくらいに知っている。

 女中のひとりがテーブルに近づいた。厨房に行く前に残骸を少しでも片しておこうと思ったのだろう。

 皮を剥いてひと口大に切っているにもかかわらず、ラムジの周りはどこもかしこもぐちゃぐちゃだった。不器用なのかなんなのか。この王子様、食い意地がはっているわりに平らげるという行為がとてつもなく下手なのだ。

「失礼いたします」

 空いた皿を下げるため、女中がテーブルに一歩近づいた。袖に気をつけながら、すっと腕を伸ばす。指先で皿を掴んだ、直後。

「あーっ!! 何するんだよっ!!」

「きゃっ……!」

 ばしんっと、ラムジが平手で彼女の頬をはたいた。

 とっさのことに身も心も構えていなかった彼女は、皿を持ったまま絨毯の上に倒れ込んだ。薄桃色のみずみずしい唇から、じわりと滲んだ真っ赤な血。どうやら自身の歯で噛み切ってしまったようだ。

 傷つき、怯える彼女に向かって、ラムジが吠える。

「だれが下げていいって言った!! 勝手なことするな!! まだ残ってるじゃないかっ!!」

「も、申し訳……っ」

 見れば、彼女が下げた皿には、わずかばかり橙色が残っていた。

 ほんのわずか。誰が見ても残していると判断するであろう、わずかな欠片。

「戻せよ!! 今すぐ!!」

 自身の前。どろどろでぐちゃぐちゃのそこを指さしながら、さらに命令する。

 とはいえ、いつもならこの程度に執着を示したりしないのだ。彼女はけっしてタイミングを見誤ったわけではない。しいて言うなら、機嫌を見誤った。

 ラムジの機嫌は、ここ最近すこぶる悪かった。せいで、ただでさえ面倒くさい性格が、ますます面倒くさくなっている。

 言われたとおりに女中が皿を戻せば、

「こんな近くに置くな!!」

 置く位置が悪いと暴言を吐き、少し離れたところに置き直せば、

「届かないだろ!!」

 これまた位置が悪いと猛り立つ。

 挙句、

「どいつもこいつも使えないヤツばっか!! 出ていけ!!」

 テーブルクロスを引き千切らんばかりに引っ張り、乗ってあるものすべてを床にぶちまける始末。

 こうなってしまっては、彼女たちに為すすべはない。何をやったところで癇癪玉を破裂させることは不可避だ。

 出ていくように言われたが、はたして本当に出ていっていいものか。彼女たちが逡巡していると、ラムジはいっそう激昂し、罵声を浴びせた。

「いつまでそこにいるんだよ!! 早く消えろっ!!」

 手近なところにあった燭台をがしっと掴んで振りかぶる。

 純金製のそれは重く、当たりどころが悪ければ致命傷にだってなりかねない。だが、ラムジにそこまで思いを致せというのは無理な注文だ。なぜなら、この男には、共感性もなければ想像力もないから。

 きたるべき衝撃に備え、女中は身をすくませる。目を瞑る。歯を食いしばる。

 と、次の瞬間。

「オマール様、マアムールをお持ちいたしました」

 現状がこれ以上の惨状に変わるすんでのところに現れたのは、側近のナジュだった。

 手には、焼き立てのマアムールとティーセット。香ばしい匂いと芳潤な香りが、湯気とともに立ちのぼる。

「ナジュ!」

 まさに一瞬だった。

 彼の姿と、彼の持ってきた焼き菓子によって、ラムジの怒りは一瞬にしてほどけた。

「どこ行ってたんだよ! やっぱりおまえじゃないとダメだ!」

 カモメ眉と両目とのあいだに距離をつくり、喜色を湛える。

 ここだけを切り取ってみても、ラムジがナジュに全幅の信頼を寄せていることがよくわかる。

「申し訳ございません。ただいま戻りました」

 やわらかく洗練された物腰でこの場を収拾する。ラムジの手が届く範囲だけ最低限整えると、脇目もふらずに貪り始めたあるじを尻目に、理不尽に傷つけられた女中にこう耳打ちした。

「ここは私が引き受ける。お前たちは下がっていい。……ご苦労だった」

 ナジュのこの言葉に、泣きそうになりながら女中は頷いた。何度も何度も頷き、小さく「ありがとうございます」と告げると、深々と低頭してこの場をあとにした。

 彼女たちがいなくなり、どろどろでぐちゃぐちゃのこの部屋にふたりきり。

 先ほどの癇癪が嘘のように、ラムジはご機嫌で焼き菓子を頬張っている。ものすごい速度と勢いで体内へと放り込み、あっという間に今度は平らげてしまった。

「なくなった……」

「新たにお持ちいたしましょうか?」

「……ううん。もういいや」

 まるでスイッチが切れた機械のように、ラムジはようやく静かになった。けれど、満足しきれていないといったふうに、無言で下唇を突き出している。

 ここ最近のラムジはすこぶる機嫌が悪い。長いあいだ我慢を強いられているから。

「なあ、ナジュ」

「はい」

「いつまで我慢すればいいんだ?」

「……と言いますと?」

「ペットだよ!! いつになったら連れてこられるんだ!!」

 静かだったのもつかの間。テーブルを両手でダンッと叩くと、振り向きざまにナジュを仰いだ。顔を赤らめ、わなわなと全身を小刻みに震わす。

 ペット——すなわち、ヒト。

 二年前より、ラムジはヒトを飼うのをやめている。他国と歩調を合わせるため、スハラがスハラであるために、ある程度仕方のないことだと理解はしているが、納得はできていない。

 つまらない。そろそろ限界だ。

 それに、今はどうしても欲しいヒトがある。

「アレを連れてこい!! ぼくはアレが欲しいんだ!!」

 ヒトはみんな同じ顔をしている。でも、アレの顔は際立っていた。今でもよく覚えている。色も白くて髪も輝いていて、まるで人形みたいだった。歌も上手い。……そばに置いておきたい。

「次はアレじゃなきゃダメだっ!!」

 カモメ眉をそびやかし、力を込めて訴える。

 欲しい。どうしても欲しい。欲しい欲しい欲しい。

「かねてより申し上げておりますが、彼女は難しいかと」

「~~っ、なんで——」

「彼女は世界的に有名な歌手です。加えて、あのガルディア帝国の民。……もしもグランヴァルト陛下の目や耳に届くことがあれば、彼の逆鱗に触れることは必至でしょう。それでも構いませんか?」

 ナジュの指摘に、ラムジはうっと言葉を詰まらせた。

 グランヴァルトは、竜人とヒトが等しくともに生きることを強く唱えている。そして、何よりも自国の民を重んじる立派な君主だと、他の国の君主たちからも称賛されている。自分にはさっぱり理解できないが、とにかくグランヴァルトはすごいらしい。偉大らしい。万が一彼にそっぽを向かれてしまえば、おそらくこの国の明日はない。

 どうしたって、スハラはガルディアに敵わないのだから。

 だが。しかし。

「……もしもグランヴァルト陛下にバレたら、の話だろ?」

 ここで諦めるようなラムジではない。

 底抜けにポジティヴで救いようのないおぼっちゃまは、けっしてくじけない。

「バレなきゃいいんだ」

 にまりと笑って、くふふと漏らす。なんとも稚気に満ちた態度だ。

 まるで子ども。大きな、子ども。

「……次はどうしても彼女、と?」

「そうだ!」

「……わかりました。では、時間をください」

「ん? どれくらいだ?」

「彼の国の現状を鑑みつつ、諸々慎重に調整するために、最低一年は必要かと」

「そんなに!?」

「何度も申し上げますが、間違いなくこれまでで一番難しい案件です。彼女の姿が見えなくなれば、全世界に激震が走るでしょう。我が国から人々の目を逸らしつづけるためにも、入念な準備が必要です」

「……わかった」

 ナジュにここまで言われてしまえば、肯くほかない。

 それでも、アレが手に入る喜びに、ラムジは昂ぶる感情を抑えることができなかった。

「楽しみだなあ」

「……」

 手に入ると、未来は明るいと、信じて疑わない。

 そんな主に、ナジュの口はつややかな笑みを象った。

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