bygone Days(1)
「……あ、そうだ」
何かを思い出した様子で、グランヴァルトは立ち上がった。それまで撫でていたプラチナブロンドの髪をひと束掴むも、名残惜しそうにその場を離れる。
まるで絹糸のような彼女の髪は、さらりと彼の手から滑り落ちた。
秋めく陽光が、低く長く差し込む午後。
硝子を散りばめたかのような光の粒が、きらきらと室内でさざめき躍る。夏の気配が残った日なたは、なおも汗ばむ陽気だ。
だが、たしかに季節は移ろっているらしく、窓の外の広葉が今、ひとひら風に攫われ落ちていった。
あれから二週間。
ユリアは、再びコテージを訪れていた。
グランヴァルトが帝都にいるときは、自分が音楽活動を自粛する前は、まさか短期間で二度も会えるだなんて思ってもみなかった。恋仲であるとはいえ、到底『普通』とは呼べない関係。一緒に過ごせること自体、夢みたいだ。
本日の送迎はイーサン……ではなく、ジーク。
前回のイーサンによる突発的な逢瀬劇に、少なからず衝撃を受けていたジークだったが、この日はみずから送迎役を買って出てくれた。仕事が終わり次第、迎えに来てくれるらしい。
呆れるでもなく惑うでもなく、ただただ困ったふうに笑って寄り添ってくれる兄に、ユリアは胸の詰まる思いがした。
「悪い。前に会ったときからずっと、俺が持ったままになってた」
立ち上がって数秒後、グランヴァルトが戻ってきた。手には、丁寧に折りたたまれた紳士用のストール。
二週間前、寝ているグランヴァルトにユリアが掛けた、あのストールだ。
「それ、セオドアのか? にしては、あんま使ってないようだが……あ、ちゃんと洗ってるからな」
起きてすぐに見送ることとなったため、毛布と一緒にソファに置いたままとなってしまったのだと彼。気づいたのはユリアと別れたずっとあと、夜も更けた頃だったらしい。
「わざわざすみません。……実はこれ、四年前だったかな? わたしが祖父にプレゼントしたものなんです。渡してすぐ入院しちゃったから、たぶんそんなに使えてなくて。祖父が亡くなって、母が持って帰ってきてくれたんですけど、どうしようか迷ってたら『使ったら?』って母に言われて……それで、わたしが」
「え、ってことは、形見じゃないか。そんなに大事なものなら、どうにかしてもっと早く返せばよかった」
「い、いえっ、そんな……!」
祖父の形見。たしかにそうだ。大事なもの。大切なもの。
けれども、とりたてて肌身離さず身につけている、というわけでもない。むしろ、置いて帰った時点で、グランヴァルトに渡したも同然と思っていたくらいだ。
「……あ、あのっ」
「ん?」
「もし、グラン様がよろしければ、そのまま持っていていただけませんか?」
「え?」
「あっ、失礼なこと言ってるって、わかってはいるんですけど……その……」
感情がもつれる。ゆえに、口ももつれる。
自分が誰かに贈った物が、自分の手元にあるということに、ユリアはどことなく不思議な感覚をおぼえていた。同時に、物を通して、いなくなってしまった存在を意識するということに、まだ、少し、抵抗がある。
あれからもう、十年以上経つというのに……。
「……ユリア?」
怪訝そうな、心配そうな面持ちのグランヴァルトに、顔を覗き込まれた。自分は今、どんな顔をしているのだろう。すんなり受け取っていれば、こんなふうに彼を困惑させることもなかったのに。
俯き、唇をきゅっと結ぶ。
「いいのか? 俺がもらっても」
申し訳なさに苛まれていると、持っていたストールをグランヴァルトにひょいと取り上げられた。洗剤の芳香と太陽の匂いが、ふわりと舞い立つ。
「え? ……あ、はい。もちろん、というか、お願いしたいというか」
「サンキュ。ありがたく頂戴する」
「……いいん、ですか?」
「いいもなにも、お前がくれるっていうのに、断る理由ないだろ」
笑ってそう言うと、グランヴァルトは自身の双肩にストールを引っ掛けた。口角が上がっている。どうやらご満悦のご様子だ。
そうして、ユリアを自身のほうへ引き寄せると、脚のあいだ——ユリアの定位置——にすっぽりと収め、ストールごと後ろから抱きしめた。
「グラン様にわたしのお下がりを渡してしまった……」
「なに言ってるんだ。だからいいんだろ。それに、お前がくれるものなら、その辺の落ち葉だって喜んでもらうぞ俺は」
ユリアの肩に顔をうずめ、抱きしめる力を強める。「いくらなんでもそれは」とユリアが過言を指摘すれば、「うるさい」と言わんばかりに首筋をかぷかぷと甘噛みされた。
大型犬さながらのじゃれつきように、ユリアの胸がきゅっとなる。胸がきゅっとなるたびに、彼への『好き』が大きくなるのを感じた。
「なあ、ユリア」
と、なにやら改まった態度の彼に、名前を呼ばれた。目を合わせることができないので、「どうしました?」と、声だけで反応する。
すると、さらに改まった態度で、彼はこんなことを切り出した。
「ひとつ、訊きたいことがあるんだが」
「訊きたいこと?」
「ああ。話せる範囲で構わないから」
なんだろう。
とくに思い当たることのなかったユリアは、首を傾げつつも、グランヴァルトから次に継がれる言葉を待った。
彼は、直前まで逡巡しつつも、遠慮がちにこう求めた。
「お前が、歌い続ける理由を、教えてくれないか」
それは、まさしくユリアの根幹に触れる問いかけだった。
ユリア・シュトラスが、歌い手ユリア・マクレーンとして活動するに至った核心。すべての、はじまり。
「歌い続ける理由……」
「あ、いや、話せないなら話せないで構わないんだ。悪い、急に」
「ああ、いえっ、話せないとかでは全然ないんです! ただ、どこからお話すればいいか悩んでしまって。……少し長くなってしまいますが、聞いていただけますか?」
首をもたげ、時間を頂戴する旨を伝えれば、もちろんだと彼は強く頷いた。
これに対し、目を細めて微笑むと、ユリアは語り始めた。静かに、ゆっくりと。
記憶のふちを、えどるように。
「はじめて音楽を意識したのは、物心ついてすぐに聴いた軍楽隊の演奏でした。祖父の奏でるトランペットの音色に、ものすごく感動して……そこで、音楽が大好きになりました」
三歳で祖父のトランペットに出会って音楽を識り、七歳でゴスペルに出会って歌う楽しさを識った。
両親のおかげで、学びたいことを学べる環境は整っていた。天賦の才能と好奇心、素直な性格も相俟って、ユリアが頭角を現すまでに、それほど時間はかからなかった。
「小さい頃は人見知りで、家族以外と話ができなかったんですけど、人前で歌うようになってから、少しずつ知らない人とも話ができるようになったんです。……でも、話せば話すほど……なんて言えばいいんだろ。その……感性や言葉選びに、ギャップを感じるようになってしまって……」
みんなが黒だというものが白く見えた。つまらないというものが面白く感じた。不気味だというものが可愛く思えた。
間違いだというものが、そうとも言い切れないんじゃないかと、悲しくなった。
「その頃から『変わってるね』って、よく言われるようになりました」
家族や身内は、ユリアの言わんとすることを的確に汲み取ってくれていた。ゆえに、意思疎通を図るのに苦労したことはなかったが、それが当たり前ではないということを、外の世界に出てはじめて気がついた。
こと、同世代の子どもたちとのやりとりは、非常に難儀した。
——ユリアちゃんってさ、何言ってるかわかんないよね。
子どもは残酷だ。悪意なく、刃物よりも鋭い言葉を突き立てる。
「わたしが口を開いたら、場の空気を悪くしてしまうかもしれない……そう思うと、とたんに話すことが怖くなりました」
自分の意見は言わない。訊かれたことだけに短く答える。
また、話せなくなった。
「家族には相談できませんでした。ジーク兄にも。……心配、かけたくなかったから」
シュトラス家の血を引くはじめてのヒト。自分が原因で親族と絶縁状態に陥った父。
ちょうどこれらのことを気にかけはじめた時期だったということもあり、ユリアはますます殻に閉じこもるようになった。
そんなある日のこと。
「たまたまうちに遊びに来てた兄の親友が、わたしが悩んでることに気づいてくれて、話を聞いてくれて……言ってくれたんです。『そのままでいいんだよ』って」
言いたいことは言えばいいし、言いたくないなら、丸ごと歌にすればいい。
無理しなくていい。変わらないでいい。そのままでいい。
ユリアの世界を明るく照らしてくれたのは、コンラートだった。
「ああ、そうなんだって。わたしはわたしのままでいいんだって。ラトくんの言葉で、ようやくありのままの自分を表現できるようになりました」
相変わらず話をするのは苦手だったけれど、歌なら、どれだけ多くの人々を前にしても自分を表現することができた。
その頃から、コンラートのバンド仲間で、同じ事務所のアミルやレイやアイラとも接するようになり、ユリアの世界はますます明るく広がった。
すべては、コンラートのおかげ。
楽曲制作、表現技法、歌い手としての心持ち。ユリアにとってコンラートは、思慕の対象であると同時に、敬愛すべき偉大なミュージシャンであった。
「……ん?」
ここで、今まで静かにユリアの話を聞いていたグランヴァルトが、おもむろに言葉を挟んだ。湧き上がった疑問を、即座に呈する。
「お前の後ろで演奏している彼らは、お前の専属じゃないのか?」
「専属です」
「え? なら、バンド仲間っていうその彼は……」
「……亡くなりました。十二年前の夏、増水した川に流されて。……わたしの、目の前で」
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