bygone Days(2)

 衝撃的なユリアの告白が、グランヴァルトの息を詰まらせた。彼の息づかいが、腕が、全身が、強張っていくのを感じる。

 当時の場景を思い起こせば、今なお慄然とする。

 忘れるはずない。忘れることなんてできない。普段は思い浮かべないようにしているだけなのだ。意識的に。

 でも、今なら——ユリアは自分に言い聞かせた。

 今なら大丈夫。きっと大丈夫。彼が、いてくれるから。

 ぬくもりに体を預けたユリアは、前を向いたまま、訥々と語り続けた。散らばった言葉を拾い集め、あの日の記憶を辿っていく。

「あの夏は、雨が多くて、あの日も、朝からずっと雨が降ってて」

 十二年前の、あの夏の日。

 ユリアは、コンラートと並んで傘を差し、街なかを歩いていた。

 ユリアはレッスンを受けるために、コンラートはデビュー直前の打ち合わせをするために、ともに事務所へと向かう途中だった。 

 連日降り続いた雨により、帝都を巡る水路は氾濫寸前。同様に、街の中心を流れる川も危険水位を超えていた。濁った水が、まるで獰猛な生き物のように、唸り、荒ぶる。

 本来ならば美しい様相を呈している川沿いの遊歩道も、あの日ばかりは見る影もなかった。普段は賑わう水辺の公園は濁流に飲み込まれ、パーゴラの屋根だけが水面から覗いていた。

 変わり果てた街の姿に、ふたり揃って愕然とした。自然の脅威を前に人間の無力さを痛感し、言葉を失った。

 水には近づかないように。そうコンラートから忠告を受けたユリアは、頷き、ふたたび歩みを進めた。

 そのときだった。


 ——助けてください!! 息子が……っ!!


 荒れ狂う川、その間際で泣き叫ぶ、若い竜人の母親を見つけた。

 母親の腕の先には、幼い竜人の少年。五、六歳だろうか。今にも川に半身を攫われそうになりながらも、必死に母親にしがみついていた。

 コンラートは、大人をたくさん呼んでくるようユリアに指示を飛ばすと、迷わず親子のもとへと駆け出した。

 地面に傘が落ちる。ぱしゃんと水が弾ける。

 心配だった。けれど、その背中を見届けることなく、ユリアは言われたとおり大人たちを呼びに走った。

 歩いている大人。雨宿りしている大人。店に出入りする大人。

 おもに男性を選んで声をかけた。なかば叫ぶように、目に涙を浮かべながら訴えると、大人たちは声をかけ合い駆けつけてくれた。

 どうどうと唸る濁流に負けないよう声を励まし、大人たちが合図を送り合う。即席の救助チームだったが、うまく役割を分担し、コンラートごと少年を引き上げることに成功した。

 少年は助かった。……それなのに。

 コンラートの片足が乗っていた場所——川水に削られ、脆くなった地面——が、音もなく崩れ落ちた。

 ——一瞬だった。

「とっさに手を伸ばしました。けど、振り払われて……」

 幼い右手に走った、乾いた痛み。はっきりと、拒絶された痛みだった。

 ユリアの手を掴めばどうなるか、コンラートはわかっていたのだ。わかっていたからこそ、ユリアの手を振り払った。躊躇うことなく、抗うことなく、自身の身に起こった現実を受けいれた。

 彼の最後の表情を、ユリアは今でも鮮明に覚えている。

「わたし、ショックでその場に倒れちゃって……気づいたら、病院のベッドの上にいました」

 首をもたげると、傍らには母がいた。

 娘が目を覚ましたことにほんの少しだけ安堵の色を湛えるも、険しい表情のまま、母は口を開いた。


 ——コンラートが……コン、ラ……っ——


 ユリアは、生まれてはじめて母の泣き顔を見た。声を詰まらせ、嗚咽に喉を震わせるその姿に、すべてを悟った。

 もしも手を伸ばしたのが自分じゃなければ——ベッドの上でのたうち回るように、悶え、苦しみ、泣き叫んだ。

 もしも一緒にいたのが自分じゃなければ——彼の手を掴めなかった自分を、何度も何度も呪った。

 とおくで、心が壊れる音がした。

 身を引き裂くような慟哭。三日三晩、極限まで自分を責め続けたユリアは、歌い手として何よりも大切な声を失った。

 それだけではなかった。

 笑うことも、怒ることも……ついには、泣くことさえできなくなった。

 いっさいの表情を、失った。

「……っ」

 あまりにも凄絶なユリアの過去に、グランヴァルトは絶句した。かける言葉が見つからない。

 言葉は無力だ。たとえ千言万語を費やしたとしても、彼女が負った傷や抱えた痛みを消し去ることはできない。

 傷痕は、一生残る。必ず。

 グランヴァルトは、ユリアを抱きしめる腕によりいっそう力を込めた。ひとことも発することなく、ただただきつく抱きしめる。あの日の——十二歳のユリアごと包み込むように、きつく。

「……自分を表現するすべを全部なくして、何も考えられなくなって。周りのみんなは、焦ることなく、焦らすことなく、優しく寄り添ってくれたんですけど……時間が経つにつれ、みんなからどんどん笑顔がなくなってしまって。自分のせいでみんなが笑えなくなったんだって思ったら、よけいに自分が許せなくて……」

 食事も喉を通らず、睡眠も満足にとれなくなった。自室にこもりがちになり、できることがしだいに減っていった。

 あとになって知ったことだが、両親は医師から「このままでは命が危ない」と警告されていたらしい。

 事態は深刻。けれど、本人含め家族は何をどうすればいいのかわからず、時間だけが過ぎていった。

 そんな折。

「話せなくなって三ヶ月くらい経った頃かな。ちょうど今くらいの時期だったと思うんですけど。……アミルくんたちが、家まで来てくれたんです」

 その日、自宅には、ユリアと父であるセオドアのふたりきりだった。母のアンジェラは仕事を辞めた直後で、各所に挨拶をするため朝から不在だった。

 相変わらずユリアは自室にこもりきり。そんなユリアのもとに、アミルとレイとアイラ、そして、エマがやってきた。エマとは、このときが初対面だった。

 アミルの勢いに面食らったのだろう。ついユリアの自室まで通してしまったセオドアだったが、心配してすぐさま四人を追いかけてきた。

「突然部屋まで四人が来たからびっくりしちゃって。無表情のままでしたけど。……そのときのアミルくんの言葉に、わたしは救われました」


 ——オレたちと一緒に音楽やろうユリア。オレはお前に歌ってほしい。お前がいい。


 ユリアの両肩を掴み、真っ直ぐ目を見据えて、アミルは言った。

 本気だった。アミルは本気でユリアがまた歌えるようになると信じていたし、本気でユリアと音楽がしたいと思っていた。

 ほかの三人も、アミルと同じ気持ちだった。ユリアのことを、彼らは心の底から信じていたのだ。

「すっごい泣きました。みんなの気持ちが、本当に嬉しくて。……病気になってから、そのときはじめて『ありがとう』が『ごめんなさい』にまさったんだと思います」

 泣いた。ぼろぼろ泣いた。まるで言葉を知らない赤ん坊のように、わんわん泣いた。

 泣いていると、それまで廊下から見守るだけだった父が入ってきて、思いきり抱きしめられた。

 たぶん、父も、泣いていた。

「諦めてました。もう二度と歌えないって。歌い手にはもうなれないって。でも、みんなのおかげで、もう一度歌えるようになれたんです」

 病気の後遺症、それに対するリハビリは、想像以上に厳しいものだった。三ヶ月ものあいだ失っていた声を取り戻すこと。覚悟はしていたけれど、やはり容易なことではなかった。

 だが、それを乗り越えられたのも、ひとりじゃなかったから。みんなが、支えてくれたから。

 およそ三年の月日をかけて回復と準備に努めた結果、ユリアは無事、十五歳でデビューすることができた。

 〝不世出の若き歌姫〟、〝千年にひとりの逸材〟、〝奇跡の歌声〟——実に華々しく鮮烈なデビューだった。

 新たにバンドを組む案も浮上していたけれど、それは四人が断った。

 ユリアひとりにスポットを当てる。自分たちは後ろからユリアを支える。何があっても、どんなときでも、四人でユリアを支える。

 これが、ユリアがデビューするにあたっての、四人の堅固な意志だった。

「……彼らの存在そのものが、お前が歌い続ける理由なんだな」

「……はい」

 自分で自分が信じられなかった。自分で自分を諦めていた。そんな自分を、四人は、信じて諦めないでいてくれた。

 だから、歌い続ける。

 歌えなくなるその日まで、ずっと。

「そうか。なるほどな。……つらいこと、思い出させてすまなかった。ありがとう。話してくれて」

「あ、と、とんでもありません。わたしのほうこそ、ありがとうございます。長々と聞いてくださって……グラン様?」

 ユリアを抱きしめる腕の力が、この日一等強くなった。不思議に思い振り向けば、そこには、今にも泣き出しそうな顔のグランヴァルトがいた。

 眉間に皺を寄せ、ぐっと歯を噛みしめ、唇を引き結んでいる。この人は、こんな歪んだ表情までも美しいのか——。

 彼が泣きそうになっていることに驚いた。同時に、あまりの神々しさに思わず見惚れた。

「!」

 体を動かす間もなく、呼吸をする間もなく、舌を絡めとられた。獣のように荒々しくて、狂おしいほど優しい口づけ。

 まるで、ユリアがここにいることを——その存在を、確認するかのような。

「……ありがとう、ユリア。生きていてくれて」

 ぽたっと、ユリアの目頭に大粒の雫が当たった。あたたかなそれは光の筋となり、頬を伝って滑り落ちる。

「生きることを……諦めないでいてくれて」

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