bygone Days(3)

 グランヴァルトが注いだ言葉。涙とともに、注いだ言葉。

 彼が声を詰まらせたその瞬間。

 ユリアの中で、何かが弾けた。

「……っ、一度だけ……思ってしまっ、ことが、ある……っ、です……、……もう、無理だって……っ」

 激しく脈打つ胸の鼓動。体が熱い。息ができない。

 感情が、迸る。

「消えたい、って……——」

 絞り出した声に嗚咽が混じる。グランヴァルトの顔が、視界が、滲んでいく。今頬を伝う涙がどちらのものなのか、ユリアにはもうわからなかった。

 あれは、アミルたち四人が、ユリアのもとを訪れるひと月ほど前のこと。

 ユリアの心は、ずたずたに劈かれた。ほかでもない、ユリア自身の罪悪感によって。

 夜中。ダイニングのドアが少しだけ開いていたので覗いてみれば、そこには父と母がいた。背を向けていた父の表情は窺えなかったが、対座している母の表情は確認できた。

 母は、泣いていた。

 目に涙を溜め、細い肩を震わせながら、声を押し殺して泣いていたのだ。

 泣いている母を見たのは、それが二度目だった。

 強くて、頼もしくて、滅多なことでは動じなくて。怒ると何より怖いけれど、笑った顔が世界一美しくて。

 自慢の母。大好きな母。どんなときでも、何があっても、自分の味方でいてくれた母。

 そんな母が、泣いていた。

 自分のせいで。自分が、不甲斐ないせいで。

「わたしの、せいで……っ、母は、大好きな仕事を辞めて……わたしとの時間を、増やしてくれて……、……なのにわたしは、治るどころか、『ありがとう』も『ごめんなさい』も、何も……っ、何も、言えなくて……っ」

 ごめんなさい。ごめんなさい。不甲斐ない娘でごめんなさい。大好きな仕事を奪ってごめんなさい。つらい思いをさせてごめんなさい。心配かけてごめんなさい。迷惑ばかりかけてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 もう無理だ。

 もうだめだ。

 もう————消えたい。

「——っ」

 ユリアの声なき悲鳴が、静かに空気を劈いた。

 躊躇わなかったわけではない。よくないことだと承知で思ってしまったのだ。もう限界だと。消えてしまいたい、と。

 今のユリアからはとうてい想像できない感情の渦動。だが、グランヴァルトは、当時のユリアの心裡を——粉々に割れてしまいそうな、ばらばらに崩れてしまいそうなその繊細な心裡を、的確に汲み取った。汲み取って、涙した。

「お前は悪くない、ユリア。悪くないから。自分を責めるのは、もうやめろ。母君のためにも。……彼の、ためにも」

 グランヴァルトの優しい声音が、ユリアの耳朶を静かに打つ。

 だれも自分を責めなかった。コンラートが死んだとき一番近くにいた自分を。母が仕事を辞める原因を作った自分を。

 家族も、だれも。

 エマでさえも。

「目にした場景や耳にした音は、お前の中に一生残るだろう。匂いや感触、涙の味も……。残るのは仕方ない。経験した出来事は、すべてお前の一部になってしまったから。……だが、枷にするのは違う」

 今なら思い出せる。鮮明に、思い浮かべられる。

 コンラートの表情を。最後の表情を。

 ——笑っていた。

 いつものように、優しい顔で。「大丈夫だよ」って、笑っていた。

「お前が背負うべきものなんか、何もない」

 胸奥に深く刻み込まれた罪悪感。この十二年間、ずっと拭いきれなかったふたりに対するそれを、たった今、グランヴァルトが受け止めて流してくれた。

 グランヴァルトの指先がユリアのまなじりをなぞり、透明のたまをそっと掬う。

 目と目が合う。鼻先が触れる。

 溶け合うような、萌え立つような、深く深い口づけ。

 口内の熱が上がる。甘い吐息が弾ける。

 再度見つめ合ったふたりは、こつんと額を重ねて笑みを交わした。

「……落ち着いたか?」

「はい。……すみません。わたし、グラン様の前で泣いてばっかり……」

「気にするな。お前のことだ。今までずっと、周りを気遣って感情を抑え込んできたんだろう? ……俺の前では、我慢しなくていい」

 ユリアの頬に軽く唇を押し当て、「俺も感極まって泣いてしまったしな」とグランヴァルト。少し腫れた目元ですら、もはや彼の麗しさを引き立てるアクセントだ。

 彼が好きだ。彼を愛している。

 これ以上の気持ちはない。これまでも、これからも。そう断言できるほどに、グランヴァルトへの愛は、ユリアの中で特別な色と形になっていた。

 外は快晴。

 しだいに落ちていく秋陽に、ふたりは揃って目を細めた。

「迎えまで、まだ時間あるか?」

「はい。今日は少し遅くなるって、ジーク兄が」

「そうか。……なら、ちょっと付き合ってくれないか?」

「え?」

 グランヴァルトは、ユリアをソファから立たせると、続いて自身も立ち上がった。ユリアからもらったストールは双肩に掛けたまま。かなりお気に召したようだ。

 首を傾げながらも、ユリアは肯いた。「何をするんですか?」という至極純粋な疑問を投げかける。

 これに対し、グランヴァルトは、つややかな笑みを湛えてこう答えた。

「散歩」

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