bygone Days(4)

 色づいた広葉が、風に舞って散っていく。

 さながら海を彷彿とさせるエメラルドグリーンの湖面、そこにたゆたう赤や黄色。その隙間で、跳ねた魚が幾重もの波紋を作る。

 グランヴァルトに手をひかれ、ユリアは湖畔を歩いた。さりさりと草を踏みしめ、彼の半歩後ろをゆっくりとついていく。ここへ来るのは二度目だが、こんなふうに外を散策するのは初めてだった。

「きれいな景色ですね」

「気に入ったか?」

「はい、とても。……季節や時間帯で、また印象が違うんでしょうね」

 街の喧騒から隔離された美しい自然。空も雲も木も花も、すべてが鮮やかで立体的に見えた。

 風が渡る。ふたりの話し声以外に聞こえるのは、鳥のさえずりと虫の音だけ。時間の流れが緩やかになったような錯覚さえおぼえてしまう。

 不意に、グランヴァルトが立ち止まった。つられてユリアも立ち止まる。

 不思議に思ったユリアがグランヴァルトのほうを見上げれば、彼は静かに言葉を落とした。

「ずっとこの景色を見てきた。何年も」

 湖面に向けられた彼の視線。だが、その眼差しは、どこか遠くを見つめているようだった。

「ご養生……ですか?」

「いや、生活していた。生まれて十二年間、俺はここで暮らしていたんだ。……母とふたりで」

 よくある貴族の別邸——単純にそう理解していたユリアの問いかけに、グランヴァルトがかぶりを振って答える。

 グランヴァルトの表情が翳る。周囲を彩る鮮烈な木々とは対照的な鈍色。

 これまでに見たことのない顔色に、ユリアはひどく不安になった。思わずグランヴァルトの腕に手を添える。

「大丈夫ですか?」

 と、一瞬目を丸くしたグランヴァルトだったが、すぐさまユリアに柔らかく微笑むと、落ち着いた口調で語り始めた。

「おもしろくない話だが、聞いてくれるか?」

 自身の生い立ちを。

「もちろんです」

 十二年にも及ぶ、母との軟禁生活を。

「本来なら、俺は帝位を継承するはずじゃなかったんだ」

「……え?」

「母は、いわゆる側室でな。帝室に嫁いだときには、すでに父と正妃のあいだに男児が生まれていた」

 グランヴァルトが、再度歩みを進める。先ほどは半歩後ろをついて歩いたユリアだったが、今度は隣りを歩いた。

 彼の手を、ぎゅっと握りしめる。細く小さなその手で、ぎゅっと。

「……初めて、知りました。グラン様がご長男だとばかり」

「公にしていないからな。このことは、ごく一部の者しか知らない」

 目元に宿る切なさを滲ませ、グランヴァルトがふっと笑う。その『一部』には、セオドアやジーク、イーサンといった、軍でもひと握りの重臣のみ含まれているらしい。

 むろん、たとえ家族であったとしても、彼らが口外することは絶対にない。ユリアが知らなかったということが、何よりの証左だ。

 グランヴァルトは、ユリアにすべてを話した。

 帝位を継承するはずだった異母兄が病死したこと。生まれること叶わなかった異母兄のこと。絶望に心を蝕まれた正妃が、生まれたばかりの異母姉を殺害したこと。

 息子の命を守るために、孤独な出産を余儀なくされてしまった、母のこと。

「俺を守るために、母は自身のすべてを犠牲にして、ここで俺を生み育てた。頼れる者もいない中、たったひとりで」

 ユリアは息を呑んだ。ああそうかと、思い至った。

 これが皇帝。大国の、君主。

 望むと望まぬとにかかわらず政争の当事者となり、身内でさえも命をおびやかす。

 いつの時代もどこの国にも存在することだと、一般教養として身につけてはいた。政争に破れ命を落とした少年少女の名が、頭をよぎる。

 ——教科書の中だけにとどまらない。それを今、ユリアは目の当たりにしている。

「母が亡くなり、宮殿で暮らすようになっても、俺は父を父として慕うことはできなかった。……かといって、あるじとして尊敬できたかといえば、それもできなくてな」

 父との距離感。次期皇帝としての修養。

 結局何もわからないまま死別してしまったと話すグランヴァルトの憂い顔は、麗しいほど儚く、どこか幼く見えた。

「覚悟はしているつもりだった。責任も、それに伴う重圧も。だが、即位して日を追うごとに、不安が増して……夜にジークを呼びつけたりもした」

 不安な夜をいくつも過ごした。ある意味ここで暮らしていたときよりも不安で、孤独な夜を。

 そんなとき、小言を漏らしながらも、悪態をつきながらも、傍らにいてくれたジークの存在は、グランヴァルトにとって何より心強いものだったらしい。

 グランヴァルトとジークの関係が、主従を超えた特別なそれであると前々から感じていたユリアは、この話を聞いて得心した。

 ほかの者ではだめだったのだ、きっと。ジークでなければ。

 当時のふたりの様子が目に浮かぶ。笑って、しかめて、驚いて。

 ひょっとすると、夜どおし語り明かしたことも、幾度かあるのかもしれない。

 同盟国においては、唯一、北国ノース・ランドのライアン王だけが、わざわざガルディアを訪れ、直接相談に乗ってくれたらしい。即位以来、実の父ではなく、彼の背中を追い続けてきたのだと、そう、グランヴァルトは明かしてくれた。

「周りには恵まれていたと思う。皆、充分過ぎるほど支えてくれて……。だが、最終的に決断するのは自分だ。若さゆえの経験不足はどうすることもできないが、それを言い訳にすることはできない。かりに、下した判断が間違っていたとしても。……その意味では、為政者というのは、孤独な生き物なのかもしれないな」

 ぱしゃんっと、湖の魚が音を立てて跳ねた。一陣の風とともに、鳥たちが湖上を羽ばたいていく。

 このときのグランヴァルトの笑みは、まぎれもなく嘲笑だった。自身に対する、為政者という生き物に対する、冷ややかな嘲笑。

 グランヴァルトは優しい。想像することしかできないが、その優しさゆえに悩み、苦しんだことも、おそらく少なくないのだろう。すべてを背負い、命をかけて、非情な決断を下したことも。

「……」

 何も言えなかった。

 軽々しく何かを口にすることなど、ユリアにはできなかった。彼の悩みを共有することもできなければ、彼の苦しみを分かち合うこともできない。立場上、仕方がないと受け容れてはいるものの、胸の内側で燻るこのもどかしさを消し去ることはできなかった。

「でも」

 ここで、グランヴァルトが空気を吐き出した。つかの間淀んだ沈黙ごと、短く。

 視線がぶつかる。繋がった部分から伝わる熱が、よりいっそう高まるのを感じた。

「二週間前、この国に対するお前の想いを聞いて確信した。俺のやってきたことは、目指してきたものは、間違いじゃなかったと」

「!」

 くんっと、手を引っ張られ、ユリアはよろめいた。彼の胸元に、頬がぶつかる。次の瞬間、背中に腕を回され、きつく抱きしめられた。

 鼓動が聞こえる。胸の奥からとめどなく湧き出るようなそれは、彼が生きていることを——自分が生きていることを、確かに示す証だった。

「ありがとう、ユリア。生きていてくれて。……俺を、選んでくれて」

「グラン様……」

「——愛してる」

「……っ、……——」

 低く囁く声が、ユリアの心の琴線を弾く。想いを伝えたいのに、想いを返したいのに、嗚咽が邪魔して言葉が出ない。


 この人のために、何ができるだろう。

 歌うことしかできない自分に。

 無力な自分に。


 紫色の雲間から覗く、真白い月。

 冬へと向かう澄んだ空が、ふたりをそっと見守っていた。

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