ChapterIⅡ:3 years ago

taps(1)

 ——ユリアは本当に歌が上手だね。

 ——ほんと? ありがとう、おじいちゃん!

 ——将来の夢は? やっぱり歌手かい?

 ——うん。……でも、まだわかんない。かんたんなことじゃないって、とってもとってもむずかしいことだって、しってるから。

 ——……ユリアは、音楽が好き?

 ——え? うん。だいすきだよ。

 ——歌うことは?

 ——だいすき!

 ——そうか。なら、大丈夫だ。音楽にしても何にしても、『好き』という気持ちが、一番大切だからね。……ユリアのその気持ちは、いつかきっと届くよ。





 ◆ ◆ ◆





「捧げーっ、つつ!」

 一列に並んだ五名の軍人。濡羽色の礼服を纏った彼らは、その体の中心で垂直に小銃を捧げ持つ。この動作が意味するのは、亡くなった者に対する最大級の敬意。

「弔銃発射用意っ!」

 号令に従い、コッキングレバーを引く。一糸乱れぬ整然とした動き。カシャンというその音まで、ひとつの音のように聞こえた。空に向けられた銃口の角度も同じだ。

「放てーっ、つつ!」

 パァンッ——

 蒼穹へと勢いよく放たれた弔砲。計三発の渇いた筒音が、高く遠く鳴り響く。彼の死を悼むように。彼の笑顔を偲ぶように。

 彼の栄光を、讃えるように。

「……——」

 市街地を望む丘の上。ひんやりとした冷たい風が、ユリアの頬を撫でてゆく。まるで慰藉いしゃをもたらすように穏やかなその風は、草の上を駆け渡り、枯れ木のあいだを通り抜け、冴えた空気の中へと消えていった。

 二月とは思えぬほどに、雲ひとつない空の下。祖父エドガー・マクレーンの葬儀が、軍葬にて、しめやかに執り行われた。

 近親者だけの、ごくごく小さな葬儀。だが、現役の元帥の義父ということもあり、名だたる面々が参列していた。軍部からは、イーサンやジーク。そして、ユリアの事務所からは、社長のヴォルターをはじめ、メンバー四人やミトが参列した。

 建国二千年祭の夜に病状が悪化してから、およそ一年半。長い闘病のすえに、エドガーはこの世を去った。御年七十四。この夏、七十五歳を迎えるはずだった。

 ひつぎの隣には、エドガーの遺影。それから、彼が愛用していた金色のトランペット。患っていたのが肺ゆえ、晩年は吹くことさえできなかったけれど、それでも、あのトランペットが彼の体の一部であることに変わりはなかった。

 一片の滞りもなく、粛々と葬儀は進んでゆく。……殉職ではない。皆一様に、この日が来ることは覚悟していた。しかし、いざ現実に直面すると、誰もが深い悲しみをおぼえずにはいられなかった。

 なんとも形容しがたい悲愴感や寂寥感。それらの感情は、ユリアの胸にぽっかりと大きな穴を開けた。いつも寄り添ってくれた存在、その熱が、ふっと消える感覚。何度経験しても、けっして慣れることはない。

 込み上げる涙をぐっと抑えつけ、ユリアは、母アンジェラの様子を横目でちらりとうかがった。黒いヴェールに覆われたその横顔は、悲しみや苦しみを包含した魔女のごとく、やはり途轍もなく美しかった。

 母は、涙ひとつこぼさなかった。それどころか、じっと前を見据え、柩から片時も目を離さなかったのである。

「……」

 母のその強さに、ユリアは感服した。同時に、ひどく胸の締めつけられる思いがした。母がどれほど祖父のことを敬愛していたか、ユリアは痛いくらいに知っている。

 母は、『お父さん子』だった。

 芸術大学への進学を祖母に反対されたときも、父との結婚を祖母に反対されたときも、祖父は、最初から最後まで母の味方をしてくれたのだと、そう聞いたことがある。

 それは、ユリアにとっても同じだった。いつだって、祖父は自分の味方をしてくれた。歌手になることを、歌手でいつづけることを、応援してくれていたのだ。幼い頃から、今までずっと。

 葬送ラッパが、永遠の別れを告げる。丘の上に響き渡ったその音色は、とても切なく、とても柔らかく、とてもあたたかかった。

 見上げれば、どこまでも澄んだ青い空。まるで、優しく穏やかな祖父のように晴れ渡っていた。

 空が、笑っていた。




 葬儀終了後。陽光が降り注ぐ、誰もいなくなった会場の片隅で。

 黒い喪服に身を包んだままのアンジェラは、父にかけられた最期の言葉を思い返していた。


 ——アンジェラ。お前は……お前たちは、本当にいい子育てをした。ロナードもユリアも、とても優しく立派な子たちだ。お前のこと、私は心の底から誇りに思うよ。……お前がセオドアくんと結婚できて、本当によかった。


 母親としての自分に、父がかけてくれた言葉。今にも消えてしまいそうな命の灯火を、懸命に灯しながら伝えてくれた最高の言葉。娘として、これ以上に嬉しい言葉など、ほかにあるだろうか。

 セオドアとは、恋愛結婚だった。出会ったのは大学時代。互いに惹かれ合い、結婚を意識するようになるまでに、それほど時間はかからなかった。

 だが、セオドアは竜人。それも、名家のひとり息子。周囲から——とくに母シェリーから反対されることは目に見えていた。案の定、シェリーは猛反対した。「娘が苦労するとわかっていながら、嫁になんてやれるわけないでしょう!」と、泣きながら叫喚したあの姿は、三十年以上経った今でも鮮明に覚えている。

 母の気持ちは理解していた。事実、夫の親族からは母以上に猛反対された。理由はもろもろ存在するが、最大の理由は、自分が『ヒト』であるということ。でも、自分はどうしても夫と結婚したかった。

 そんな自分を信じ、支えてくれたのが、父だったのである。

「お父さん……」

 音になるかならないかの掠れた声。足下へと向かって滴下されたそれは、ひと筋の北風に攫われてしまった。

 どんなに呼びかけたところで、父から返事が戻ってくることは、もう二度とないのだ。

「……」

 目頭が熱くなる。鼻の奥がつんと痛み、唇がわなわなと震えた。父とのことを追憶すればするほど、決壊寸前のダムのように想いのかさが増してくる。

 今日は絶対に泣かないと決めていた。……決めていた、のに。

「アンジェラ」

「!」

 突然、背後から名前を呼ばれた。よく通る低い声。聞き慣れている声とはいえ、驚きのあまり肩がびくっと跳ね上がる。

「気持ちいいくらいに晴れてはいるが……あまり長居をすると風邪引くぞ」

 ゆっくりと近づいてきた影。その優しい声音に、無言で頷く。あまり顔を見せたくはなかったが、いつまでも俯いてはいられない。すんっと一度だけ鼻をすすり、彼のほうへ顔を向けようとした。

 そのとき。

「顔は上げなくていい」

「え……?」

 アンジェラの顔を周囲から隠すように、セオドアは妻の肩を抱き寄せた。そうして、自身のハンカチを、妻の胸元へそっと差し出す。

「大丈夫だ。私しか見ていない」

 頭上から注がれたこの言葉の意味を、アンジェラは瞬時に感取した。濡羽色の袖の先。差し出された白いハンカチを受け取り、上体を逞しいその胸元へと預ける。

「……いつぶりかしら」

「さあな。私も、お前の涙は数えるほどしか見たことがない」

「……」

「だが、せめて今日だけは、ひとりで泣かないでくれ」

「……——っ」

 アンジェラは、声を押し殺して泣いた。セオドアから受け取ったハンカチを顔に当て、肩を震わせる。彼が抱き寄せてくれなければ、きっと、今の彼女は立つことさえできなかっただろう。

「本当に素晴らしいヒトだった。早くに親を亡くした私に、『父親』とはどういうものか、身をもって教えてくれた。……お前と結婚できて、私は本当に幸せだ」

 父の死が、つらくて苦しくてたまらない。同時に、夫の心遣いが、あたたかくて嬉しくて胸が張り裂けそうだった。

 重厚な鐘の音が、時を刻む。まるで、普遍であることを説き、諭すように。

 自身の涙で濡れそぼったハンカチからは、愛する夫の匂いがした。

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