taps(2)

 ことん、と花瓶をチェストの上に戻す。今しがた水替えを完了した旬の花々は、心なしか活き活きとしているように感じられた。少しずつ向きを変え、見栄えのいいベストなポジションを探る。

「難しいんだよね、これ。お母さんすごいなー」

 自宅の玄関ホールでひとり。丸い花瓶を右に左にくるくると回しながら、ユリアは試行錯誤を重ねた。玄関側からも廊下側からも映える角度というのは、実に難しい。いつも事もなげにこなしている母のすごさを実感した。

 祖父の葬儀から三日経ったこの日。ユリアは、珍しく単身留守番をしていた。父は仕事。母は、朝早くから実家に帰省している。帰宅時間は、ともに遅くなるらしい。

 母が実家に帰省している理由。それは、祖父の遺品を整理するため。祖母と母を含めた三人の子どもたちで協力し、一週間を目途に片すことを、葬儀の日に約束したのだそう。

「……っ」

 熱くなった目頭をごしごしとこする。漏れそうになる声を抑えながら、ぎゅっと唇を引き結んだ。祖父のことを思い出しては、泣きそうになるのを我慢する——毎日が、この繰り返しだ。

 つらいのは自分だけじゃない。母だって……母のほうが、つらいに決まっている。そんなふうに自分を叱り飛ばし、ユリアはリビングへと体を向けた。

 ふと見上げた壁。そこに掛かっている絵画に視線を送る。鮮麗な青は、今日も変わらず神秘的な魅力を放っていた。この場を、離れがたいほどの。

 これは、今から三十年ほど前。父が母に頼んで描いてもらったものらしい。父の持っている大切な写真を、母に見せて描いてもらったのだと。詳細は定かではないが、亡くなった両親との思い出の場所なのだと、以前父から聞いたことがある。

 親を亡くす悲しみというのは、いったいどれほどのものなのだろうか。想像もつかないし、想像したくもないけれど、きっと、言葉では表現できない痛みを伴うのだろう。

 親を亡くす痛みは知らない。けれど、大切な人を亡くす痛みは知っている。

 ユリアが大切な人を亡くしたのは、祖父で四人目。その前は、ジークの父ゼクス。その前は、ジークの母ルナリア。

 そして、その前は——

「ただいま」

 突としてユリアの鼓膜を揺らした男性の声。体をリビングに向けたまま、声のほうを見遣った。

 ドアベルを鳴らすことなく玄関扉を開け、中へと入ってきたのは、

「あ、お兄ちゃん。おかえり」

 8つ離れた兄——ロナードだった。

 母親譲りの金髪に父親譲りの蒼眼。凛と整った顔立ちは、まさに父と母を足して二で割ったようなそれである。

 ユリアとは正真正銘血の繋がった兄妹だが、ロナードは竜人。耳の形も肌の色も背中の鱗も、ユリアとはまるきり異なっている。

「お疲れ様。言ってたもの、リビングのテーブルの上に置いてあるよ」

「ありがとう。助かる」

 ユリアとひとことふたこと交わし、ロナードは慣れた様子で家へと上がった。そうして先を歩く妹に腕を伸ばし、あるものを手渡す。

「なにこれ」

「紅茶。また三人で飲んでくれ」

「えっ! んもう。帰るたび気を遣わなくていいのに」

 頬をぷっくりと膨らませ、眉を顰める。それでも、兄に「ほら」と紙袋を押しつけられ、「ありがと」と両手で受け取った。ジークといい、ロナードといい、はまったくもって律儀である。

 兄妹揃ってリビングへ。ユリアの言うとおり、テーブルの上には、この日ロナードが帰省した目的が鎮座していた。それを視認したロナードは、とたんに溜息をつき、脱力する。

「これでやっと催促から解放される……」

「あははっ、お疲れ様」

 両手で顔を覆い、ロナードは吸い込まれるようにソファへと座り込んだ。沈着冷静で、あまり感情を表に出さないタイプだが、今回は相当参っていたらしい。

 テーブルの上に置かれてあるのは、おもちゃのトランペット。所有者は、三歳になるロナードの息子だ。

「お前にもらったこのおもちゃ、すごく気に入っててな。毎日握って離さないんだ」

「そうなの? それはよかった。それおもちゃだけど、形は本格的だし、そこそこいい音するからね。大人でもじゅうぶん楽しめそうなくらい」

 昨年のすえ、ユリアはこのトランペットを甥にプレゼントした。子ども用のおもちゃにしては、本物に寄せて作られてあることに好感をおぼえての選択だった。

 エドガーの葬儀に際し、前後合わせて三日間をシュトラス邸で過ごすこととなった甥は、当然のごとくこれを持参。だが、怒涛のような慌ただしさに紛れ、そのまま置き忘れてしまったのだ。

 それから今日までの甥の言動は、推して知るべしだろう。

「悪いな。せっかくの休みに」

「ううん、気にしないで。そんなに気に入ってもらえるなんて思ってなかったから、すごく嬉しい。……お兄ちゃん、このあと時間ある?」

「ん? ああ」

「じゃあ、ひと息入れて帰って。美味しい焼き菓子があるの」

 ひと段落ついたところで、ユリアがこう提案した。ここから兄の住む郊外までは車で半時間以上。とんぼ返りをさせるには、少々抵抗があった。

 司法官として多忙を極めている兄。父親譲りの聡明さと高い身体的資質を兼ね備えているとはいえ、やはり体調面は常に気がかりだ。可能ならば、ゆっくりと休んでほしい。

「ありがとう」

 ユリアのこの提案を、ロナードはありがたく受け入れた。キッチンへと向かうその小さな背中を優しく見送る。

 休んでほしい——ユリアのこの気持ちに嘘や偽りなどは存在しない。けれど、なるべくひとりになりたくないというのが本音なのだ。ロナードは、それに気づいていた。

 この日、ロナードが実家へ帰省した目的はふたつ。ひとつは、息子の忘れ物を回収するため。そしてもうひとつは、ユリアの様子をうかがうためであった。

「……」

 母のことももちろん心配だ。母がどれだけ祖父のことを敬愛していたか、それはロナードとてじゅうぶんに了知している。祖父のおかげで母が芸大に進学できたことも。祖父のおかげで、両親が結婚できたことも。

 しかし、母以上に、ロナードは妹が心配でたまらなかったのだ。

 妹が大切な人を亡くすたび、不安で不安で仕方がない。十年前のあのときのように、ふたたび暗い暗い闇へと沈んでしまうのではないかと。再び表情を、声を、殺してしまうのではないかと。

 ユリアには、ロナードやジークのほかにもうひとり、兄として慕っていたヒトがいた。歌うことの真の喜びをユリアに教えてくれた人物。歌手としての指針をユリアに与えてくれた人物。彼は、ユリアの『光』だった。

 十年前のあの雨の日。

 命を、落とすまでは。

「コンラート……」

 今は亡きの名を口にする。ともに年をとるはずだった彼は、二十歳という若さで生涯を終えた。あれから十年。自分だけが年を重ね、今年三十歳を迎えようとしている。

 死は、等しく誰にでも訪れる。それがいつになるかはわからない。納得できる死もあれば、納得できない死もある。この三十年のあいだに、いくつもの身近な死を経験してきたが、後者のほうが圧倒的に多かった。歯痒さに、何度唇を噛み締めたことか。それでも、遺された者は前へ進むしか……生きていくしかない。

 無常で非情なこの現実を、妹はたった十二歳で初めて経験することとなった。にもかかわらず、乗り越えて前へと進み、歌手として確固たる地位を築き上げたのである。

 そんな妹のことを、兄は心底尊敬している。

「お兄ちゃーん。お土産の紅茶、開けてもいいー?」

「ああ、いいぞ」

 家族として、一ファンとして、彼女の進む先を見届けたい。自分にできることなら、なんでもしてやりたい。力になってやりたい。

 ロナードは、微笑を湛えて短く嘆息すると、ソファにもたれ天井を仰ぎ見た。


 ◆


 会議室から出たところで、セオドアは小さく嘆息した。会議が始まる前から白熱することは目に見えていたが、よもやあそこまでとは。よく時間内に収められたものだと逆に感心する。

 ここは、イルレーシュ宮殿に隣接された行政府の建物。立場上、年に何度も足を運んでいるが、どうにも慣れることはない。やはり独特の雰囲気がある。まあ、立法府にも司法府にも……自身が属する軍部にも、それぞれ同じことが言えるのだろうが。

 この日の議題は、ここガルディア帝国で開催されるサミットについて。

 サミット——主要国首脳会議とは、ガルディア帝国含む七か国の長が一同に会し、毎年夏に開催される国際会議の総称である。一年ごとにそれぞれの国が開催地を持ち回り、同時に議長国を兼任する。すなわち、今年の開催国兼議長国はガルディアなのだ。

 サミット開催日まで、あと約四ヶ月。その間に、会場整備や警備体制の確立など、諸々の万全を期しておく必要がある。今回、関係機関(軍)のトップとして、セオドアはこの会議に出席する運びとなった。

 会議は紛糾を極めた。おもに内務大臣オーエンと外務大臣のあいだでバチバチと。両者ともにゆえ、声を荒げる場面こそなかったが、わずかな静電気でも発火しそうなほどの険悪さだった。いわゆる『犬猿の仲』というやつである。

 三日ぶり、復帰後初となる仕事はこれにて終了。しかし、これからまた本部へと戻り、溜まっているであろう大量の書類を処理しなければならない。

 先ほどよりも少し大きめの溜息をつき、セオドアは出口のほうへと爪先を向けた。重たい足を持ち上げ、歩みを進める。ブーツの踵が絨毯を踏むたび、くぐもった鈍い音が体の内側で響いた。

 季節は冬。だが、廊下に差し込む陽光は暖かい。道中、会う人物会う人物から深々と会釈をされた。そのほとんどは、建物内で働く行政官だった。懸命に、誠実に、職務をこなす彼らの姿におのずと破顔する。若人たちの真剣な眼差しは、ここも軍部も等しく眩しい。

 胸のすくような心地。かすかに上向いた気分を足取りへと映す。下へ下へと階段を降り、右に左に角を曲がり、ようやく出口に差しかかったときのことであった。

「セオドア……!」

 不意に飛び込んできた嗄声に、セオドアの足が止まった。意図的に聞こえにくく発しているのだろうそれには、疑念しか浮かばない。声の主は、よくよく存じ上げている。親友亡き今、自身を呼び捨てにする人物など、この国にはしかいない。

 声のするほうへと目を遣れば、わずかに隙間のできた扉。そこは、滅多に使用されることのない小部屋だった。

「……入ってこい、ということだな」

 本日最大級の溜息とともにこう漏らすと、セオドアは静かに扉を押し開けた。カーテンを閉め切った室内は、昼間だというのに薄暗い。そのうえ湿っぽかった。どうやら、かなりのあいだ使用されていないようだ。

 室内へと映し出された自身の影を踏みつけ、一歩前へと進み出る。すると、傍らからぱしぱしと肩を叩かれた。躱そうと思えば躱せたが、そうしなかったのは、相手が相手だからである。

「会議、ご苦労だったな」

「痛み入ります。陛下」

 セオドアをここへ呼び込んだのは、皇帝グランヴァルトだった。口角を上げて笑う様は、まるで幼い少年のよう。周囲が薄暗いにもかかわらず、ほのかに輝きを放っているように感じられるのは、さすがと言うべきか。

「これから本部に戻るのか?」

「はい」

 ふたりきりでひそひそと話す皇帝と元帥。異様としか言いようのないこの光景は、ほかに類を見ないはず。

 自由奔放なグランヴァルトのことだ。従者に内緒で、またこっそりと抜け出してきたのだろう。が、宮殿と隣接し、内部からの行き来が可能とはいえ、今のこの状況はあまり好ましいものとは言えない。

「陛下はなぜ行政府こちらへ?」

 セオドアにとって、グランヴァルトを宮殿まで連行することなど造作もない。けれど、それを実行する意思は皆無だ。

 かといって、ここにいる理由に触れないわけにもいかなかった。返答のいかんによっては、強制連行もやむなしである。

 ところが。

「お前の顔見に」

「……え?」

 グランヴァルトから返ってきたのは、実に意想外の答えだった。思わず聞き返した声が、はっきりと音になって湿った空気を揺らす。

 驚くセオドアをよそに、グランヴァルトは言葉を続けた。その表情には、珍しく苦衷の色が滲んでいる。

義父おやじさん、残念だったな。軍楽隊に所属していた頃のことは、俺もよく知っている。上からも下からも信頼された、徳の高いヒトだった。……本当に、残念だ」

 エドガーに対する哀悼の意。これを、セオドアが仕事に復帰したこの日に直接伝えるため、グランヴァルトは宮殿を抜け出してきたのだ。会議が終わる時間を見越し、わざわざ湿っぽい部屋に隠れてまで。

「軍には、お前が必要だ。だが、お前の家族にもお前が必要だ。……お前やゼクスのおかげで、幹部には人格者が揃っている。少しのあいだ下に任せてみたらどうだ? 今は、できるだけ家族との時間を取れ」

 あるじは——この国の皇帝は、こういう人物なのだ。

 セオドアは、グランヴァルトのほうへ体を直すと、深く長く黙礼した。彼の気持ちに、その心遣いに、いたく恐縮する。親と子ほど年の離れた青年に、改めて強く抱いた忠誠心。胸の詰まる思いがした。

「……と、足止めして悪かったな。とりあえず、今日は早く家に帰れよ」

 そう言い残すやいなや、グランヴァルトは扉ではなく窓のほうへと駆け出した。閉まっていたカーテンをばっと払い、全開にした窓から外へ飛び出す。活き活きと。自由闊達に。

 その姿は、さながら天翔る鳥のようだった。

 あっという間に閑散とした小部屋にひとり。セオドアは、ゆっくりと窓のほうに歩みを寄せた。湿った空気と冴えた空気が混ざり合う。窓を閉めてしまうのはなんだか惜しい気もするが、そうもいかないと窓枠に指を引っかけた。

「また逃げられてしまったか。まったく勘の鋭い御方じゃの」

「サイファ殿」

 グランヴァルトを追いかけるように入室してきたのは、宰相のサイファ・マラードだった。残念だと嘆くその言葉とは裏腹に、相変わらず穏やかな表情をしている。

「陛下に何か急用でも?」

「いや、そういうわけではないがな。……まあ、なくはないが」

「?」

 意味深長な口ぶりで「ほっほ」と笑うサイファに疑問符を飛ばす。彼がここへ来たのは、グランヴァルトの従者に泣きつかれたからとのことだが、それ以外にも何か理由がありそうだ。

「グラン様にもじゃが、儂はおぬしに会いたかった」

「……私に、ですか?」

 トレードマークの顎鬚を撫で下ろしながら、サイファはセオドアのもとへと近づいた。カーテンのあいだから覗いた窓に、向かい合ったふたりが映り込む。

「此度のことは、誠に残念じゃ。儂は、大佐とは生まれた年も土地も同じでな。互いに忙しくなかなか会えはせんかったが、それでもいろいろな話をした」

 穏やかな表情から一転。悔しさに顔を歪めながら、サイファは寂寞とした胸の内を語った。『大佐』とは、退役時のエドガーの階級。ふたりが五十年来の友人——酒を酌み交わすほどの仲——であることは、セオドアも知っていた。

「家族の……とくに孫娘の話を嬉しそうにしておった。まだまだあの子の歌を聴いていたかったじゃろうに……残念じゃ」

「……」

 エドガーはサイファに対し、事あるごとにユリアの話をしていたらしい。それはそれは嬉しそうに、誇らしそうに。

 ユリアがプロとして活動するようになり、顔を合わせる機会が減ってしまった際も、嘆くことなくエールを送り続けていたのだと、サイファは懐かしそうに目を伏せた。

「近しい者の死ほどつらいものはない。幸せな時を共有していればいるほどな。……おぬしは、それを誰よりも知っている。今は、できるかぎり家族との時間を大事にしたほうがいいじゃろう」

「陛下にも、同じことを言われました」

「そうか。……グラン様も、亡くす痛みを知っておられるからな」

 幼少期に母親を亡くし、八年前に父親を亡くしたグランヴァルト。帝室という特殊な環境で生まれ育ち、なおかつ母親が側室という立場であったため、一般的な家庭とひと絡げに語ることはできない。

 でも、だからこそ。

「だからこそ、家族というものに対する想いは、人一倍強いのやもしれん。帝室の多妻制にも疑問を抱いておる。……それだけに、なかなか結婚話も進まんでのう。儂も無理強いはしたくないんじゃが、グラン様の年齢と立場を考えると、どうしても急いてしまってな」

 サイファのこの言葉で、彼がグランヴァルトに話さんとしている内容が——グランヴァルトが彼から逃げんとしている理由が、セオドアの中で繋がった。センシティヴかつ国家の存続にかかわるほどの由々しき問題であるため、なるほど難儀である。

「陛下に御結婚の御意思は?」

「あるにはある。が、『結婚相手は自分で見つける』の一点張りでの。気持ちは十二分にわかるんじゃが……はてさてどうしたものか」

 眉尻を下げ、サイファは「やれやれ」と肩をすくめた。

 長年にわたり、グランヴァルトのことを誰よりも近くで見てきたのはサイファだ。グランヴァルトの気持ちを何よりも尊重したいと、誰よりも願っているに違いない。事実、手詰まり感すら否めないこの状況でも、彼の困り顔からは無償の愛情が感じられた。

「おお、すまんすまん。おぬしの顔を見ると、ついつい話し込んでしまう」

「いえ、とんでもありません。お心遣い、感謝いたします」

「うむ。アンジェラにも、よろしく伝えておいてくれ。……難しいとは思うが、あまり気落ちせんようにとな」

「……はい」

 窓の側を離れ、ふたりは揃って室内をあとにした。セオドアの声が、サイファの足音が、しだいに遠ざかっていく。

 扉が閉まり、カーテンに光を遮られた小部屋は、ふたたび湿気と静謐に包まれた。

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