ChapterⅠ:5years ago
dears(1)
満員のホールを優しく包み込む歌声。
ビロードのようなそれは、ときおり強くなったり、深みを増したり、さまざまな色と形に変化を遂げる。
さながら万華鏡。中でも特徴的なのは、彼女の代名詞ともなっている魅惑のロングトーンだ。
澄んだ高音が、聴く者の心に浸透していく。穢れを祓うように。傷口を癒すように。
プラチナブロンドの長髪。サファイアブルーの双瞳。スポットライトを浴びたそれらが、まるで星屑のようにきらめき輝く。
彼女が微笑めば、左目尻のほくろがよりいっそう魅惑的に映り、彼女が左右に手を振れば、観客もそれに合わせて右に左に手を振った。
えもいわれぬ一体感。ホール全体のボルテージは、一気に頂点へと駆け上がっていく。
ギターの音が、ドラムの音が、ベースの音が、キーボードの音が……彼女のロングトーンとともに鳴り止んだ。かわりに空気を震わせたのは、割れんばかりの拍手と歓声。
「ユリアーっ!!」
「ユリアちゃーんっ!!」
ステージ上の彼女に向かい、観客が口々に名前を叫ぶ。終演を迎えたとわかっていてもなお、彼女の歌声や、その麗容を求め続けた。
名前を呼ばれた彼女は、マイクを持った左手と空の右手を掲げ、笑顔でそれに応じた。幕が下りきるその瞬間まで、感謝の気持ちを精いっぱい伝える。
「ありがとうございましたっ!!」
眼前の光景を瞼の裏に焼きつけ、耳の底に沈むあたたかい残響を噛みしめながら。
ユリアは、ステージをあとにした。
バックステージに戻ったユリアたちを拍手で迎えてくれたのは、この周遊公演を終始陰で支えてくれた、スタッフの面々だった。
春に始まり、気づけばもうすぐ秋。およそ半年に渡る全日程を無事に終え、中には感極まって涙する者もいた。
「みなさん、お疲れ様でした。みなさんのおかげで、今年も無事に完走することができました。本当にありがとうございました」
下は十代から上は六十代までのヒトと竜人。ひとりひとりの顔を見つめながら、ユリアは謝意を伝えた。自分が歌手として活動できるのは、ここにいる全員のおかげ。……否、今この瞬間も、ホール内外で奔走しているすべての人々のおかげなのだと、改めて心に刻み込む。
音響係、照明係、衣装係、食事係、警備係——その他大勢のスタッフが関わり、作り上げた最高のステージ。その余韻を、静かに反芻する。
そして、
「アミルくん、レイくん、アイラちゃん、エマちゃん……いつもほんとにありがとう」
ユリアは、四人の名前を挙げると、お礼とともに頭を下げた。謝意の対象となった彼らは、ユリアのバックバンドを務めるヒトたちだ。
彼らの音が、自分の歌を生かしてくれる。彼らがいてくれるから、自分はステージに立つことができる。
あのとき彼らが諦めないでいてくれたから、自分は、今このときを歌い続けていられるのだ。
仕事仲間としても、友人としても、ユリアにとって四人は特別な存在だった。彼女が初めて表舞台に立ってから五年。彼らの絆は、時を重ねるごとに強くなっている。
再度あたたかい拍手に包まれたバックステージ。笑い合う五人をフレームに収め、今年一番の大仕事はつつがなく終了した。
……はずだった。
◆ ◆ ◆
「ユリアー。ちょっとちょっとー」
自室で寛ぐユリアの耳に届いたのは、階下から自身を呼ぶ母の声だった。「なにー?」と聞き返すも、「ちょっと来てー」の一点張り。
読みかけの本に栞を挟み、無造作に机上へと置く。あまり気は進まないが、早く行かなければ今以上に面倒くさいことが起こってしまう。母のもとに生を受けて二十年。長年の経験により、ユリアはそのことをよく知っている。
物語の続きが気になるけれど仕方がない。母の欲求を満たしたあとに、再度ゆっくり浸るとしよう。そんなふうに自身を鼓舞し、階段を駆け降りた。
「いかがなされましたか、母上様」
茶目っ気を含んだ言い回しでこう尋ねれば、「うむ。ついてまいれ」と、これまた同じような口調で返してくれた。母のこういうところが、たまらなく好きだ。
五十二歳になるというのに、母の容貌は衰えというものを知らない。海を彷彿とさせるアクアマリンの瞳に、ウェーブがかったブロンドヘアーは、今日も今日とて実にエレガントだ。たまに、本当に血の繋がったヒトなのだろうかと疑ったりもするけれど、年々母に似てくる自身の顔に、ユリアは血縁を感じざるをえなかった。
母の後ろを雛鳥のごとくついていく。辿り着いた先は、キッチンだった。
「そちに仕事をつかわす。これを剥け」
「……へ?」
いまだ『母上様』になりきっているアンジェラが指し示したのはカウンター。そこには、夕飯の材料であろうプリプリのエビが、ボウルの中で鎮座していた。
「剥くの? エビの殻を? わたしが?」
「なによ。美味しいグラタン食べたくないの?」
「たべたいです。ぜひむかせてください」
母の鋭い眼光の前に、拒否権などあるはずがない。そんなことは百も承知だ。袖を捲り上げ、シンクで素早く手を洗うと、ユリアは即座にエビの殻向きを開始した。
今夜のメニューは、母お手製のエビグラタン。自身の大好物に頬が緩むのを知覚しながら、拝命した任務を手際よく遂行していく。
「おー、早い早い」
ユリアの仕事ぶりに満足した様子のアンジェラは、娘の隣に陣取ると、中断していた作業を再開した。ほどなくして聞こえてきたのは、リズミカルな包丁の音。手元を確認せずとも、その年季の入りようが容易に推察できるそれであった。
もうすぐ、街全体が橙色に染まる。そこかしこから、芳しい夕飯の匂いが漂ってくる時間帯だ。
由緒ある街並みの中に
現在の当主は、ガルディア帝国軍元帥——セオドア・シュトラス。『知将』として名高い彼は、長年大将として、その職責を全うしてきた。
自分は大将として退役の日を迎える。本人はもちろん、家族もそう思っていた。
昨年の夏。唯一無二の戦友が、早過ぎる死を遂げるまでは。
「お父さん、今日は帰ってくる?」
「ううん。明日の夜まで帰れないって」
「……うう……お父さん……」
今日もまた父に会えない。悲報を知らされてしまったユリアは、「お父さんロスだ……」と盛大に嘆くと、そのままテーブルに突っ伏した。ボウルの中では、すでに殻を剥かれたプリプリのエビが、鎮座し直している。
周遊公演を終え、念願の休暇に突入したのが二日前。ちょうどその日から、父は遠方へと出張してしまったらしい。公演期間中と合わせると、半年以上も顔を合わせていないことになる。
大好きな父に会いたくてたまらない。解消することのできないフラストレーションは、もはや爆発寸前だった。「お父さんに会いたい!」と母に叫んでも、「お母さんだって会いたい!」と返ってくるだけで、なんの解決にもなりはしない。
軍本部、国外、戦地——。多忙を極める父は、昔から、一年のほとんどを自宅以外で過ごしていた。
ユリアが歌手として活動するようになってからは、ともに過ごす時間はさらに激減した。国を守るために働く父のことは心の底から尊敬しているし、自身の仕事に関しても誇りを持って臨んでいる。よって、不満など微塵もないし、後悔もしていない。……けれど、やはり寂しさを覚えずにはいられなかった。
二十歳になった今でも、それは変わらない。
「……ん?」
はたと何かに気づいたユリア。むくりと上体を起こす。
「お父さん帰ってこないんだったら、このエビの量はちょっと多くない?」
ボウルの中を覗き込みながら首を傾げる。1尾ずつ丁寧に数えたわけではないけれど、
「お兄ちゃんたちの分?」
そこで思いついたのは、兄家族の存在。
ユリアには、8つ離れた竜人の兄——ロナードがいる。司法官として裁判所に勤める兄は、二年ほど前に結婚し、勤務先のある郊外へと移住した。現在は、妻と一歳になる息子との、三人の生活を送っている。
そんな兄家族が、久々の帰省を果たすのかと思いきや……
「違う違う。これはね、ジークの分よ」
「えっ! ジーク
母の口から告げられたのは、意外かつ非常に馴染み深い人物の名前だった。
ジーク・フレイム。帝国軍に所属する、若き優秀な大佐である。
ユリアにとってのジークは、幼なじみであり、実の兄も同然。身分も種族も異なるけれど、昔はよく互いの家を行き来し、一緒に遊んだりもしていた。
ジークが士官学校へ入学したころから、ともに過ごす機会は減ってしまったが、彼を兄と慕う気持ちに変わりはない。
侯爵家の嫡男として誕生した彼は、昨年、弱冠二十三歳で爵位を継承した。偉大なる彼の父ゼクスが、
ゼクスは、セオドアの唯一無二の戦友だった。
「あんた、ジークとずっと会ってないんじゃない?」
「……うん。最後に会ったの、去年のお葬式かも」
正確には、葬儀ではない。葬儀には、仕事で参列することができなかった。
ユリアがゼクスの訃報を聞き、所属事務所の社長とともにフレイム邸へと向かったのは、その日の夜遅く。葬儀が終了してしばらく経ったあとのことだった。
あのときのジークの憔悴しきった表情は、今なおユリアの脳裏に焼きついて離れることはない。
「お母さんは? 最近ジーク兄に会った?」
「ええ。って言っても、ひと月以上経つかしらね。あの子も忙しいから」
「元気にしてる?」
「元気は元気よ。……ただ、無理するからね。周りに気も遣うし、愚痴はいっさい言わないし」
生まれたときから知っている息子同然のジークを、アンジェラはずっと気にかけてきた。三年前に母ルナリアを亡くし、一年前に父親を亡くした彼の心痛は、たとえ千言万語を費やしても癒すことなどできはしない。
傷痕は残る。必ず。
たとえ、いくら月日を重ねたとしても。
「だから、せめて美味しい料理だけでも食べてもらいたいじゃない?」
そう笑った母の表情は、まさしく『母』のそれだった。切り終わった食材を炒めるべく、慣れた手つきで順に鍋へ投入していく。
「そうだね」
母につられ、ユリアの表情もほころんだ。まさに瓜ふたつ。ふたりの血が繋がっているという徴証。
いつもそう。母は、いつもそばに寄り添ってくれていた。
八年前の、あのときも。
自身の過去を思い返し、ユリアは改めて母に感謝した。
同時に、もうひとりの兄との久々の再会に、そっと心を弾ませた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます