dears(2)

「おー、いい感じ」

 ガスオーブンの前にしゃがみ込み、中を覗き込みながら、ユリアは感嘆を漏らした。まるで夕日に照らされるように、黄橙色に染まったグラタン。焦げ目のつき始めたそれに、おのずと心が躍る。

 先ほどから鼻孔をくすぐるのは、香ばしいチーズの匂いだ。口に入れた際の、あのなんとも形容しがたい蕩け具合を想像し、満面に喜色を湛えた。

「ちょっとユリア。にやけるのはそのくらいにして、あともう一品何か作って」

 すると、カウンターで作業を続ける母に、頭上からこう急かされてしまった。かれこれ二、三分オーブンの前で貼りついている娘に、いい加減痺れを切らしたようだ。

「はーい」

 ユリアは、オーブンの前から名残惜しそうにぺりっと剥がれて立ち上がると、再び母のいるカウンターへと戻った。

 なにやらまだ食材を切っている母の手元を、ひょいと覗き込む。

「お母さん何作ってるの?」

「パンプキンスープ。あんたたち昔から好きだったでしょ?」

「……お母さんが女神に見える……」

「はいはい、どうもありがと」

 蒼い瞳をきらきらと輝かせ、全身をぷるぷると震わせて、ユリアは喜びを表現した。これに対し、アンジェラは、手元から目を離すことなく軽い口調であしらう。

 ユリアもジークも(今夜は参加しないがロナードも)、食の好みが驚くほど似通っていた。かたや名家で共働き。かたや名門侯爵家。両家とも、父親はほとんど家にいなかったため、ふたりの母親がよく交代で子どもたちの面倒を見ていた。それぞれの母親の手料理を一緒に食べて育った三人は、食の嗜好が見事に統一されてしまったようである。

「グラタンでしょ。スープでしょ。……もう一品は、サラダでいい? ベーコンときのこのサラダ」

「おっ、いいわね。ドレッシングは? 作る?」

「うん。バジルとレモンで作る」

 言うやいなや、ユリアはサラダ作りを開始した。直前までオーブンの前でにやけていた人物とは思えないくらいに手際がいい。

 ふたりの母親は、三人の子どもたちに早い時分から料理の仕方を教えていた。

 男も女も種族も身分も関係ない。『食』とは、生きるための第一歩である。——そう諭し、簡単な時短料理から少し手の込んだおもてなし料理まで、幅広く伝授した。

 おかげで三人は、キッチンに抵抗なく立つことのできる、立派な大人へと成長を遂げた。

 八人掛けのダイニングテーブル。そのおよそ半分を、彩り豊かな料理が占領する。時代を帯び、深みを増したダークオークに、旬の食材がよく映える。

 親子がプレートやグラスを用意していると、リンゴーンという重厚なベルの音が鳴り渡った。来客の合図だ。

「ジーク兄かな」

「たぶんね。お母さん準備してるから、ちょっと行ってきて」

「はーい」

 母に言われるまま、ユリアはダイニングをあとにした。廊下をパタパタと進み、玄関ホールへと向かう。

 玄関扉の横、磨りガラスの向こう側に確認したのは、見慣れたシルエットだった。

「いらっしゃい」

 扉をガチャリと開けると、

「久しぶりだな、ユリア」

 そこには、血の繋がらない、もうひとりの兄の姿があった。

 仕事帰りだというジークは、ロイヤルブルーの軍服を身に纏ったままだった。手には、小さくお洒落な紙袋が握られている。

「お仕事お疲れ様。ご飯できてるよ」

 ユリアが「どうぞ」と中へ入るよう促すと、ジークは「お邪魔します」と律儀に挨拶をした。実家も同然なのだから、勝手に入ってきてもいいのに——そんなふうにユリアは思ったりもしたけれど、なかなかそうはいかないようだ。それに、逆の立場で同様に振る舞えるのかと問われれば、なにがなんでも絶対に無理なので、一連のこの思考は破棄することにした。

「お母さん、ジーク兄来たよ」

 ジークを連れて、再度ダイニングへ。テーブルの上は、母によって完璧にセッティングが施されていた。

「おかえり、ジーク。お疲れ様」

「こんばんは。今日はありがとうございます。……これ、少しですが」

 夕食に招いてくれたことに謝意を示すと、ジークは手に持っていた紙袋をそっと差し出した。

 ユリアとアンジェラの視線が、一気にその紙袋へと注がれる。それが、そこそこ高級な『土産物』だとわかったとたん、ふたりは揃ってぷくりと頬を膨らませた。

「もうっ、気を遣わなくていいって、いつも言ってるのに!」

「そうだよ、ジーク兄! ……たいへん嬉しいけども!」

 ジークがふたりに差し出したのは、トリュフチョコレートのアソート。有名なチョコレート専門店で販売されている、ふたりの大好物だ。

 食の嗜好が似ているといえど、百パーセント合致するというのは至難なわけで。ジーク自身、甘いものはあまり得意ではないが、ふたりのために、ここへ来る直前購入してきた。

 ユリアに対し、少々強引に手渡せば、「もう! ありがとう!」と、彼女は力いっぱい受け取った。爛々と目を輝かせ、嬉々としてはしゃぐ母娘おやこを視界に収め、相変わらずそっくりだなと苦笑する。同時に、一時いっときでも戻ってこられる場所を変わらず用意してくれていることに安堵し、心の底から感謝した。

 ダイニングテーブルに三人。ユリアとアンジェラが隣り合って座り、ユリアに対面する形でジークが腰を下ろす。つぎ分けられた料理を口に運びながら、和やかに談笑する様は、まさに『家族』そのもの。種族と身分は異なれど、違和感など微塵もない、実に慣れ親しんだ光景であった。

「いつまで休みなんだ?」

「え? んーっとね。一週間だから……あと五日」

「来週の頭からまた仕事なのか」

「うん。……っていっても、今年はもうスケジュールそんなに詰まってないんだ。だから、またすぐ休めると思う。……ジーク兄は? 仕事忙しいんでしょ?」

 久々の会食の主な話題は、やはり若いふたりの仕事のことだった。どちらも不規則かつ多忙を極める身ゆえに、案じるのは互いの健康のこと。

 体だけではない。心もまた、同じくらい気にかけていた。

「軍のこと、よくはわからないけど、でも大変な立場だっていうのはわかるから……今年はリクルートも担当してるんでしょ? ちゃんと休めてるの?」

「まあ、休めないことはないんだが……なんとなく気忙しいな」

 ジークはまだ二十四歳。この年齢で大佐を務めることの大変さ、その重責を、曲がりなりにも軍人の娘であるユリアは理解していた。以前、父が言っていた。ジークは、現皇帝からも高い評価を受けているのだと。

 ガルディア帝国現皇帝——グランヴァルト七世は、五年前に『竜人とヒトの共栄』を提唱し、国家の施策として実施させた史上初の皇帝である。

 流れるような金色こんじきの髪に、美しく煌めく黄金の瞳。その容姿から、国民は彼のことを『陽帝』と慕い、その賢帝ぶりを称賛した。もちろん皆が皆というわけではないが、それでも陽帝に対する信望は絶大であった。

 ジークとは、同じ竜人貴族同士で旧知の仲。けれども、その事実を切り離したうえで、ひとりの軍人として非常に厚い信頼を寄せている——そう、父は言っていた。

「あ、そうそう」

 と、突然何かを思い出したようにジークが言葉を繋げた。疑問をおぼえたユリアが、きょとんと目を丸くする。

「この前、街で偶然おもしろいやつを見つけてな」

「おもしろい?」

「ああ。憲兵に捕まっていたんだが」

「うん」

「勢いよく殴りかかってきて」

「う、うん」

「その場で取り押さえて」

「うん。……あっ、警察行ったんだ?」

「士官学校へ入校させた」

「……はあ!?」

 ジークの口から暴露されたのは、まさかの仰天エピソード。それを聞いたユリアは、内心を盛大に音にした。さすがは歌手。驚いたときの声まで、見事に澄んでいる。

 ジークいわく、その少年はかなりの粗暴者ではあったが、とても賢く繊細なヒトらしい。今は落ち着き、士官になるべく懸命にカリキュラムを受けているとのこと。

「ときどき寮まで様子を見に行くんだが、真面目にやっているようだ」

 そう話すジークの表情は、本当に嬉しそうで。

 ユリアは、自身の顔が綻んでいくのを感じた。

 第一印象は大事だ。それはよくわかる。とはいえ、それがその人のすべてではない。おそらくジークには、彼の中に光る何かが見えたのだろう。彼自身にも見えていなかった、光る何かが。

「よかったね。……そのヒトも、ジーク兄に会えてよかったって思ってるよ、きっと」

「そう思うか?」

「うん。一緒に仕事できるの楽しみだね。……あっ、そうだ! 去年、だったかな? ほら、ジーク兄が街で見かけたっていうヒトの女の子」

「え? ……あ、ああ。去年のちょうど今ごろだな」

「誰だかわかった?」

「いや。身なりからして、おそらく良家の令嬢だとは思うんだが」

「そっかー。……すごいよね。見ず知らずの人のために落とし物一緒に探すとか、なかなかできることじゃないもん。それに怪我の手当てまでしてあげてたんでしょ? その子にも、また会えるといいね」

「ああ……そうだな」

 ユリアの両の青玉。揺らめき、零れ落ちそうなほどに瞬くそれらは、まさしく青玉サファイアだ。愛らしさも、人懐こさも、豊かな感受性も……幼いころから何ひとつ変わらない。ジークは、そんな『妹』の存在に、幾度となく救われた。

 ジークがと一緒に仕事をするのも、と結婚するのも、もう少しだけ先の話である。

「……」

 次から次へと話題を転がしていくユリアとジークを、アンジェラは静かに見守っていた。二人とも成人しているとはいえ、いくつになっても子どもは子ども。可愛くて可愛くて仕方がない。

 微笑ましいこの光景を写真に収め、今すぐにでも愛する夫に見せてやりたい。心の中で小さく笑みを零すと、彼女は水の入ったグラスをゆっくりと傾けた。


 すっかり夜も更け、冴えざえとした星が秋の空に浮かぶ。

 楽しい時間は、あっという間だ。

「ごちそうさまでした」

 玄関前。母娘に改めて深く頭を下げ、ジークはシュトラス邸をあとにした。「泊まっていけばいいのに」というふたりの提案を丁重に断り、車へと乗り込む。

「体に気をつけてね。何かあったら……っていうか何もなくても、いつでも帰ってきなさい。待ってるから」

「はい。ありがとうございます」

「またね、ジーク兄。お土産ありがとう」

「ああ。次の歌も、楽しみにしている」

 また訪れた、しばしの別れ。次に会える日がいつになるかはわからない。

 闇に染まる白い車体に向かい、ユリアは高く大きく手を振った。闇に溶け込んだあとも、しばらくその手を下ろすことはなかった。

 明日も明後日もその次の日も、変わらぬ日常が待ち構えている。

 大切な者たちと過ごすその先が、どうか明るいものとなるように——。

 亡くす痛みを知る彼らは、そう、願わずにはいられなかった。

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