ripples(1)
「陛下!」
真白い壁と高い天井に反響する大声。若干の怒気を含んだそれは、冴えた空気を震撼させながら移動していく。
「どこにおられるのですか! 陛下っ!」
青い絨毯が敷き詰められた廊下を行ったり来たり。かれこれ小一時間、この忙しない状態が続いている。
肩を
ガルディア帝国帝都イルレーシュ。その中で最も神聖とされる場所に荘厳と聳え立つのが、ここイルレーシュ宮殿である。
市街地から少し離れた丘陵の上。ナショナルカラーの青と白を基調としたこの宮殿は、まるでレフ板のように陽光を反射し、市街地を明るく照らしている。
文化、経済、軍事、科学技術……ありとあらゆる分野で世界を牽引している大国ガルディア。その頂点に君臨する
「陛下……っ!!」
——行方不明。
短時間で一気に老けこんでしまった彼——オーエン・ヴァンスの声が、廊下に虚しくこだまする。齢五十。種族はヒト。白髪交じりの茶色い髪はしなしなに萎れ、両の黒目の下には見事な隈ができている。
陛下、すなわち、グランヴァルト七世が行方不明。
字面だけを見れば、国家を揺るがすほどの大事件だが、実は珍しいことではない。何を言っているのかわからないかもしれないが、けっして珍しいことではない。むしろ、日常茶飯事である。
宮殿内を自由に移動できるオーエンの職種は内務大臣。内務省を統轄し、地方行政や警察組織など、内政や治安の維持を主な職責とする重要なポストだ。
頭脳明晰で高材疾足。クソがつくほどの真面目で、部下だけではなく、自身に対しても非常に厳格。振り子時計のように正確な彼を、こんなにも振り回せるのは、おそらくこの国にはひとりしかいないだろう。
「まったく! 奔放なのは結構だが、時と場合を考えていただきたい!」
ずかずかと大股で歩きながら、あたりを見回し
そんなオーエンのもとへ、ある人物がゆっくりと近づいてきた。
「まあまあ、オーエン殿。少し落ち着きなされ」
「……宰相!」
白く長い顎髭を撫でながら、にこにこと笑みを湛えて近づいてきた竜人の老翁。穏やかな口調でオーエンを呼び止め、まるで暴れ馬を宥めるかのごとくポンポンとその肩を叩く。
彼の名は、サイファ・マラード。御年七十三歳となる、この国の宰相だ。
「グラン様をお探しなんじゃろ? 儂はおぬしの声を宮殿の中でしか聞いておらんぞ。この一時間、ずーっとな」
「……はあ」
サイファの言に、オーエンは生返事した。一部の語を強調した意味深長な物言い。彼の意図するところが、いまいちよくわからない。
訝しげな表情を浮かべるオーエンとは対照的に、サイファは相変わらずにこやかだ。「ほれ、ほれ」と無言で急かしてくる。
「宮殿の中、宮殿の中……あっ!!」
一瞬のひらめきと同時に、オーエンは一音だけ発した。どうやら強調された語がヒントとなり、主の居場所に見当がついたようだ。
「ありがとうございます、宰相! では、私はこれで!」
「ほっほっ。儂も後ほどお話したいことがあると、ひとことグラン様に伝えておいてはもらえんか」
「わかりました!」
「よろしく頼む。……それと、あまりグラン様のことを怒らんでやってくれ」
にこやかな表情を崩すことなくこう言うと、サイファはオーエンを送り出した。垂れ下がった瞼から覗く薄紫色の瞳には、
現役の公人(議員を除く)として最年長であるサイファは、いわばこの国のご意見番的存在。常に沈着冷静で声を荒げることもない。グランヴァルトが生まれたときからずっと、側に付き添ってきた『教育係』という側面もあわせもっている。
そんな彼にこんなふうに言われてしまえば、従うよりほかはない。オーエンは、謝意を込めて軽く黙礼すると、その場をあとにした。
サイファと話したことで、少し落ち着きを取り戻すことができた。憤慨していた先ほどの自分を恥じ、戒める。
いつもそうだ。いつも、やってしまったあとに後悔する。部下を叱り飛ばしたあとも、他省と言い争ったあとも。もっと譲歩できたのではないだろうかと。ほかに言い方があったのではないだろうかと。
とはいえ、どうすればいいのか、何が正解なのか、わからないのだ。ヒトである自分の辿ってきた経緯を顧みると、不器用でも、がむしゃらに奮闘せざるをえなかった場面がいくつもあった。それゆえに、尖ってしまった部分も多い。
「……言い訳だな」
ポツリと漏らし、自嘲する。
過去は過去だ。変えることはできない。だが、未来は変えられる。その未来を大きく変えようとしている人物から、自分は内務大臣という大任を拝したのだ。
諸大臣の中で、ただひとりのヒトとして。
「陛下!」
この一時間、何度往復したかわからない廊下を外に出る。秋の草花に囲まれた石畳を進んだ先に見えてきたのは噴水。その噴水の隣、中庭で最も高い木の上に、彼はいた。
溢れんばかりの陽光を浴び、恒星さながらに光り輝く金糸。精錬された純金を、そのまま嵌め込んだかのような双眸。
陽帝——グランヴァルト・イーシャ・ガルディア七世——その人である。
「おっ、今日は意外と早かったな。オーエン」
グランヴァルトは、その御身を軽やかに持ち上げると、まるで猫のようにしなやかに着地した。その瞬間、彼の肌に纏わりつくドレープが、波のように揺蕩する。青と白の
「あと半時間くらいかかると踏んでたんだが……やるじゃないか」
サリサリと芝を踏みしめ、グランヴァルトはオーエンのもとへと歩みを進めた。上げた口角、その左下にある小さなほくろが、彼の艶美さをより助長している。
すらりと伸びた手足に、引き締まった体躯。さらには、百八十を優に超える長身。とても三十一歳には見えないほどに若々しい。
「宰相が教えてくださいました」
悪戯な笑みを浮かべる主に対し、オーエンは溜息交じりにこう答えた。
皇帝は、基本的に宮殿の外へは出られない。だが、サイファのあの物言いは、宮殿の外にいることを窺わせるそれであった。宮殿の外であって宮殿の中。すなわち、この中庭が正解だったというわけである。
なぜ約束した時間と場所を守れないのかとか、なぜ木の上に登っていたのかとか、飛び降りるだなんて何を考えているんだ危ないだろうとか……言いたいことは山ほどあるけれど、ここはぐっとこらえて呑み込むこととする。
「なんだ、じーさんに聞いたのか。俺の感嘆を返せ」
「……」
怒りでこめかみに青筋が立つも、ここはぐっとこらえて呑み込むこととする。
オーエンは、再度溜息を吐いた。今度は、先ほどよりも盛大に。
冷静さを保つため、とりあえず、先にサイファから頼まれた伝言を伝えることにした。
「宰相が、『後ほどお話したいことがある』とおっしゃっていました」
「じーさんが? ……わかった」
グランヴァルトの言う『じーさん』とは、言わずもがな、サイファのことだ。物心がついて以来ずっと、最大級の親しみを込めて、こう呼んでいる。
彼の貴族らしからぬ態度、その最たるものは、やはり言葉遣いだろう。陽帝と謳われるほどに光り輝き、賢帝と称されるほど知略に長けた彼には、あまり似つかわしくない成分、かもしれない。
「そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか」
「ん? ああ、いいぞ」
本来ならば、謁見の間にて行われるはずだった主とのやり取り。なにゆえ中庭なのか、はなはだ疑問ではあるけれど、オーエンは気を取り直して責務を果たすことにした。軽く咳ばらいをし、話を始める。
「建国祭のことなのですが」
議題は、今からおよそひと月後に行われる建国祭のこと。オーエンの用件については、グランヴァルトもすでに承知していたようだった。腕を組み、木の幹にもたれながら、彼の声に耳を傾ける。
ガルディア帝国は今年、建国二千年という節目の年を迎えた。本来ならば、夏に開催されるはずだった建国祭。しかし、今夏は、国土の三分の二が酷暑に苛まれたため、国民や国賓の大事を取って、ひと月遅らせる処置を講じた。
「国賓としてご招待した方々からは、すべて前向きなお返事を賜りました。警備体制に関しましても、軍部と提携し、滞りなく進んでおります」
「そうか。警察はお前の管轄だし、軍はセオドアだからな。その辺は、べつに心配していない」
「……やはり、まだあまり乗り気ではありませんか?」
「……」
オーエンの問いに、グランヴァルトの顔つきが少しだけ険しくなった。腕組みを解くことなく、整った眉を寄せる。
ひと呼吸置いた後。グランヴァルトは、静かに意中を吐き出した。
「建国二千年が、どれほどの重みをもっているのか……それは俺だって十分理解している。建国祭自体が、対外的に重要な意味をもつってことも。……だが、わざわざ巨額の税金を使って、派手にするのはいかがなものかと思ってな」
国の財源は、そのほとんどが国民によって納められた税金。彼らの血と汗と涙の結晶で、この国は成り立っているのだ。ゆえに、その使い道と額は、慎重に定められなければならない。
「陛下のお気持ちはよくわかります。……ですが、今一度ご自身のお立場をよくお考えください。貴方は、このガルディア帝国の皇帝なのです」
二千年という節目の年に行われる建国祭。貴族や政治家のあいだでは、例年よりも規模を拡大し、国内だけではなく、国外に向けても、派手にパフォーマンスをするべきだとの声が大きい。
その理由は明白。
国力を、誇示するためだ。
「わかってる。それに、俺だけじゃなく、お前らの立場もあるからな。貴族院の連中に極力文句言わせないよう、各省連携して最善を尽くしてくれ」
「……御意」
グランヴァルトが六年前に打ち出した例の施策は、とくに貴族院に対して黒風をもたらした。施策の統轄を内務省に命じ、そのトップにヒトであるオーエンを据えたことにより、反感の渦はより大きなものに。
以来、貴族院とグランヴァルトとの関係は、あまり思わしくない。中でも、ハンス・リヴドという伯爵議員は、施策に対する嫌悪感をひときわ顕わにしていた。
ハンス・リヴドは、以後四年をかけ、徐々にその黒い芽を伸ばしていくこととなるのだが、それはまた別の話である。
「まっ、いろいろと思うことはあるが……とにかく俺は、建国祭が民にとって楽しいものになれば、それでいい。祭りに水を差すようなことは、なるべく言いたくないからな。……で、この件についての話はもう終わりか?」
「あ、いえ。あともう一点だけ」
「?」
「祭典での音楽プログラムに関してなのですが、軍楽隊の演奏と、あと、民間から一名ほど出演を打診している歌手がおりまして」
「歌手?」
「はい。……ユリア・マクレーンという、若い女性歌手です。国内はもとより、国外においても、いまやその名を知らぬ者はいないでしょう」
ガルディア帝国が誇る若き女性歌手——ユリア・マクレーン。
帝国出身の二十歳で、種族はヒト。それ以外、彼女に関する情報はほとんど公表されていない。
メディアへの出演はほぼ皆無。数少ない
「種族や世代を越えて親しまれている彼女が出演すれば、今回の建国祭が盛況を呈することは間違いないかと。現在、帝室からの依頼ということで、所属事務所との交渉を進めております」
「ふーん、そうなのか」
「……陛下。まさかとは思いますが、彼女のことを存じ上げないなどということは——」
「おい。いくら俺が引き籠りとはいえ、それはさすがにないぞ。ない」
怪訝な眼差しとともに投げかけたオーエンの質問を、グランヴァルトは言葉を被せて打ち返した。「失礼なやつだなお前は」と、顔を顰めてぷんすかしている。
とはいえ、非常に心苦しいが、彼女のことは『高額納税者』という程度の認識しかない。顔も名前も知っているし、歌もかすかに聞いたことはあるけれど、それ以上の情報を仕入れるまでには至らなかった。
たとえ国が誇る歌姫だとしても、グランヴァルトにとっては、他の民とその尊さは同じ。等しく重い存在だ。
このときの彼は、そう思っていた。
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