ripples(2)

「うーん……こんなもんかな」

 右手にはさみ、左手にくしを持ったまま、一歩後ろへと下がる女性。アッシュグレーのショートボブに、くりっとした緋色の瞳が特徴的な、愛らしい竜人女性だ。

 腰に携えたシザーケースに両手のそれらを戻すと、彼女は視点を変えながら最終チェックを行った。左右で長さが揃っているかどうか。左右の分け目を変えることによって印象がどの程度変化するのか。まるで余念がない。

 彼女の足元には、長さのまばらなプラチナブロンドの髪の毛。ほんの少しカットしただけなのに、かなりの量が散らばっている。

「ん、オッケイ!」

「ありがとう、シンシアちゃん」

 謝意を伝えたユリアに対し、彼女はにこっと微笑んだ。ユリアの上半身に被せていたクロスをはずし、最後はつや出し専用のブラシで仕上げてゆく。「うん、可愛い!」と自賛を兼ねたユリアへの称賛を口にすると、さらに笑みを弾ませた。

 シンシアと呼ばれたこの竜人女性は、ユリアの専属スタイリストである。

 身長は、百五十七センチのユリアとほぼ同じ。小柄で顔も小さく、そのルックスは、綻んだ花のごとく実に愛らしい。

 ユリアとは七歳差で、周遊公演期間中の夏に、二十七歳の誕生日を迎えた。

「ごめんね。今日、まだお休みだったんでしょ?」

「大丈夫大丈夫、気にしないで。っていうか、ユリアちゃんの髪触ってないと落ち着かないんだよね。あたし」

 専属ゆえ、シンシアは、公演中ユリアにずっと付き添っていた。ユリアだけではなく、バンドメンバーたちのメイク等も一手に引き受けており、五人すべての全身コーディネートを担当している。表に出ることはないが、れっきとした『Teamチーム Yuriaユリア』の一員なのだ。

「わたしもほんとは今日まで休みだったんだけどなー……」

「あははっ。お疲れ様」

 重くのしかかる影に項垂れるユリア、その小さな背中に、シンシアがポンッと手を乗せる。上下に動かしさすりながら、まるで子どもをあやすように「よしよし」と慰めた。

 公演後、本来ならば、ユリアは一週間の休業期間を挟む予定だった。しかし昨日。所属事務所の社長から突然連絡が入り、急遽休みが一日削られてしまったのである。

 現在彼女たちがいるここは、所属事務所の一室。多目的に使用することが可能で、ユリアはよくこうして彼女にヘアカットを施してもらっているのだ。

「シンシアちゃん、今日はもう帰るの?」

「うん。午後から甥っ子の面倒見てあげるって、義姉あねと約束してるの」

 ユリアのこの質問に、シンシアは愛用の腕時計を確認しながら答えた。ファッションアクセサリーで有名な、某ブランドの腕時計。確認するやいなや、間を置かずに掃除に取りかかる。テキパキと動くその様は、見ていて実に小気味がいい。

 今年二歳になるというシンシアの甥は、なんと双子。兄夫婦の子どもで、忙しいふたりに協力し、面倒を見ることがあるらしい。とはいえ、シンシア自身も非常に多忙を極める身。一番よく面倒を見ているのは義姉の母親、つまり、双子の祖母にあたる人物だ。

 シンシアの本名は、シンシア・オランド。

 実兄は、『緋色の鬼神』こと帝国軍少将——イーサン・オランド。すなわち、彼女の言う義姉とは、軍きっての美人軍医大尉——イザベラ・オランドのことである。

「兄は今夜遅くなるみたいだし、義姉も娘が生まれたばかりだからね。ひとりじゃ、ちょっと大変で」

 イザベラは、今年の初夏に長女を出産したばかり。まだ生後間もない乳飲み子を抱えての育児は、怒涛のようなすさまじさらしい。公演期間が終了した今、シンシアは、空いている時間のほとんどを兄家族と過ごしているそうだ。

「上の双子ちゃん、二歳なんでしょ? それはイザベラさん大変だよ。わたしも、今年一歳になる甥っ子がいるけど、その子ひとりだけでもお兄ちゃんたち大変そうだもん」

 そう言って、ユリアは椅子から立ち上がった。シンシアの片づけを手伝い、自身が座っていたその周囲をに整える。

 先日歩きはじめたばかりという甥は、ちょっと目を離した隙に、とんでもないことをやらかしてくれるらしい。ゆえに、ごくわずかな時間でも目を離すことができないのだと、兄夫婦が嘆いていたことを思い出す。

 二歳児がふたりともなれば、その奮闘ぶりは推して知るべしだろう。

「可愛さ余って憎さ百倍なんだよね」

 などと冗談交じりにシンシアは言うけれど、結局は甥たちが可愛くて仕方がないといった様子だった。彼女のそれは容易に見て取れるし、ユリア自身、同じ『叔母』として彼女の気持ちはよくわかる。

「なんだかんだで、成長追っかけるの楽しいよね。どっちに顔が似てるかって、見比べたりするのもおもしろくない?」

「おもしろいおもしろい。姪っ子なんて、生まれたときからあたしにそっくりでさ。兄が『俺に似なくてよかった』って本気でほっとしてんの。もうおかしくておかしくて」

「あははっ! ……あっ、笑っちゃった……っ、ごめんなさい……はは……っ!」

「いいよいいよ。ユリアちゃんのその反応、大正解だもん。これ言うと、兄のこと知ってる人はもれなく全員大爆笑だからね」

 彼女の兄であるイーサンは、彼女とは似ても似つかないほどに容貌魁偉だ。二メートル近い身長に、筋骨隆々とした体躯。とても優しく卓抜な軍人ではあるが、なんというか、とにかく『ごつい』のだ。

 麗しい妻と並べば、まごうことなき『美女と野獣』である。

「でも、素敵なご夫婦だよね。共働きで家事も子育ても協力し合って……憧れちゃうな」

「まあね。そこはほんとに尊敬してる。……けど、ユリアちゃんだってそうだったんじゃない? お父様はそれこそ家にいなかったでしょうし、お母様だって、たしか大学の先生だったんでしょ? なのに、立派に子どもふたりも育てて……すごいよ」

 シンシアの言うとおり、ユリアの育ったシュトラス家にも、かつては両親ともに働いていた時期があった。今でこそ専業主婦のアンジェラだが、八年前までは国立の芸術大学で美術を教える先生だったのだ。

 いろいろな事情が重なり、アンジェラは仕事を退職するに至ったのだが。

「……うん。わたしも、尊敬してる」

 このことで、ユリアはいまだに胸を痛めている。

 母が職を辞したのはだと、いまだ自責の念に駆られているのだ。


 ——コンコン。

 と、突如室内に響いたノック音。ふたりが揃って返事をすると、部屋のドアがガチャリと押し開けられた。そうしてちらりと顔を覗かせたのは、ヒトの女性。

「終わった?」

 華やかなブロンドヘアーに碧い眼をしたこの八頭身美人は、ユリアのマネージャーを務めるミト・ギャレットだ。

 きめ細やかな肌にモデル顔負けの抜群のスタイル。実は彼女、元モデルという異色の経歴の持ち主である。

「終わりましたよ」

 ミトの問いかけに、明朗な声でシンシアが答えた。「お世話になりました」とミトが頭を下げれば、シンシアは向日葵のような笑みを湛えて頷いた。

 シンシアが専属スタイリストとなっておよそ三年。このふたりのあいだに築かれた信頼関係も、等しく揺らぐことはない。

「じゃあ、みんなを呼ぶわね」

 長い腕を廊下に伸ばし、ミトがちょいちょいと手招きをすると、ほどなくして、四人のヒトがこの部屋に集まってきた。

「よっ」

 ギター担当のアミル・ゴードン。

「お疲れ」

 ドラム担当のレイ・リカード。

「あら、夏らしく爽やかになったじゃない」

 ベース担当のアイラ・クレイン。

「ほんとだ。長さ変わってないのに、すっきりまとまったね」

 キーボード担当のエマ・リカード。

 彼らは、歌手としてのユリアを一番近いところで支える、友人兼バンドメンバーだ。

 男女ふたりずつの計四人。年齢順に並べれば、アミルが二十八歳で最年長。ついで、二十七歳のレイ。二十三歳のアイラ。そして、二十二歳のエマとなる(ちなみに、ファミリーネームの同じふたりは、結婚二年目の夫婦である)。

「あれ? シンティ、もう帰んの?」

 帰り支度を整えるシンシアに、アミルが声をかけた。『シンティ』とは、シンシアの愛称なのだが、仲間内でそう呼んでいるのは、現状アミルただひとりだ。

「うん。これから子守なの」

「あっ、少将ンとこの。お疲れさん。気をつけて帰れよ」

「ありがと。 じゃあ、お先です」

 軽快な足取りで帰途に着くシンシアを、皆一様に手を振って見送った。多忙を極める職種なだけに、空いている時間は少しでも大切な人たちと過ごしてほしい。そんなふうに願いを込め、一同はテーブルに着いた。

 先ほどユリアが七人掛け用に整えた一角。しかし、ひとつだけ空席になっている箇所がある。

「……社長は?」

 メンバー誰もが抱いている疑問を口にしたのは、ドラム担当のレイ。藍色の長い前髪から覗く紫紺の眼には、存疑の色が滲んでいる。

「そういえば、事務所に来てから一度も顔見てないわね」

 レイの次に発言したのは、ベース担当のアイラ。足を組みながら、黒い前髪をかき上げる。額とともにあらわとなった目は、右が黒く、左が青かった。

「いたら絶対わかるもんね。存在感あるから」

 アイラに応え、眉を下げて笑ったのは、キーボード担当のエマ。榛色はしばみいろの大きな瞳と、ふわふわとした淡褐色の髪の毛が、柔和な印象を醸し出している。彼女の場合は、苦笑でさえも愛嬌があった。

 本日ここに呼び出された理由を、一同は一片たりとも聞かされていない。すべてを知るのは、ミトいわく社長だけとのこと。その彼が不在となれば、話はまったくもって前には進まない。

「また娘さん絡みでへこんでんじゃねぇの? この前だって『娘が怒ってひとことも口きいてくれない』っつって、この世の終わりみたいな顔で一日デスクに突っ伏してたじゃん。今日はこの前以上に怒らせて、再起不能なんじゃね?」

 頬杖をつきながら、独自の推理を重ねたのは、ギター担当のアミル。赤みがかった鳶色の目は爛々と輝き、癖の強い栗毛はひとつに束ねられている。他のメンバーに比し、肌の色が少々浅黒いのは、彼がここガルディアの生まれではないからだ。

 カラカラとアミルが笑う。いかにも愉快そうに。

 そんな彼の背後にぬっと迫る、巨大な黒影。

「あァん? テメェ勝手なことぬかしてんじゃねェぞ。……オレァいつだって娘との関係は良好だボケッ!」

「うげっ!」

 頭上から野太い声が降ってきたと知覚するやいなや、アミルは頭頂部を鷲掴みにされた。そのままググッと五指に力を込められ、顔から血の気が引いてゆく。

 アミルの頭を鷲掴みにしている彼こそが、ユリアをはじめ、一同が所属する音楽事務所の社長——ヴォルター・スターロードである。

 百八十七センチの巨体に強面の風貌。まるで狼を彷彿とさせる灰色の髪と瞳。右のまなじりから頬にかけては傷痕が大きく走っており、鋭い笑みから覗く歯は、さながら鮫のようであった。

「ストップ! ストップ社長! 毛根死ぬから! マジで禿げるからっ!」

「るせェ。頭皮マッサージだ、マッサージ」

「ぎゃーっ!!」

 アミルの叫喚が、事務所内に轟く。

 今年四十五歳になるというのに、このパワー。しかもこれで加減しているというのだから、末恐ろしくてたまらない。

 この状況で誰ひとりとして慌てる者がいないのは、これがふたりの平常運転だからだ。けれども、放っておけば、この寸劇がいつまで続くかわからない。そこで頃合いを見計らい、最年少のユリアが助け舟を出すことにした。

「社長。わたしたちに話ってなんですか? 緊急、なんですよね?」

「んァ? あー、そうそう。……いやァ、オレもビビったんだけどよ」

 そう言って、ヴォルターはようやくアミルの頭を解放すると、空いていた最後の席にどかっと腰を下ろした。いったいどこで調達してくるのかという紫色のシャツに、てらてらと光る黒いスーツ。見れば見るほどその筋のヒトであるが、もちろん前科などはない。

「オメェら、建国二千年祭が来月に控えてんの知ってっか?」

 ヴォルターのこの問いには、全員が首を縦に振った。

 毎年夏に開催されている建国祭が、今年は秋にずれ込んだ。ガルディア帝国民であれば、周知の事実だろう。

 全員が共通の認識であることを確認し、ヴォルターは話を本題へと持っていく。

「その建国祭の音楽プログラムに関してなんだが……。毎年軍楽隊が演奏してるだろ? そこにユリア。今回、お前のパフォーマンスが特別に追加されることになった」

「……え?」

 突として告げられたまさかの事態に、ユリアは一瞬かたまった。ワンテンポ遅れて出た声は、自分でも驚くくらいに低いものだった。事態を消化したいのに、頭がついていかない。

 他の面々も、一様に瞠目したまま、固結してしまった。

「まっ、そういう反応になるわな。……つっても、正式にはまだ決まったわけじゃねェ。あとは、ウチの返事待ちだ。つまり、オメェらの……つか、ユリアの返事しだいで、この件の存続が決まる」

「社長。その話は、いったいどこから?」

「……帝室だ」

 ミトの疑問に、ヴォルターが静かに答える。

 帝室——すなわち、皇帝グランヴァルト七世の御名みなにおいて、この出演依頼がなされているというのだ。

 これには、全員が口を噤んでしまった。

 メディアをはじめ、公の場には、ほとんど姿を見せないユリア。彼女がなまの姿を見せるのは、唯一自身の公演だけ。だが、建国祭ともなれば、国じゅうに……否、国外に向けても、その姿が発信されてしまうことになる。

 ユリアが現在のスタイルで活動を続けるのにはさまざまな理由があるが、なにより『知将』の娘ということで注目されたくはなかったし、父にも迷惑をかけたくなかった。母方の名字を名乗っているのも、そのためだ。

 今のままではいられないかもしれない。未知の恐怖が、ユリアの胸中を侵食していく。

 そんな彼女が出す答えを、ほかのメンバーたちは、ただただ静かに見守った。彼女の気持ちは、その細部まで痛いくらいに知っている。それほどの時を、ずっとともに過ごしてきたから。

 それは、社長であり、歌手としてユリアを育て上げたヴォルターも同じであった。

「どうする? もちろん辞退するって選択肢もある。ここは自由主義国だ。帝室の依頼断ったぐらいで、ひっ捕えられたりなんざしねェ。……だが、もしオマエが引き受けるってんなら、オレァ全力でオマエのことを守る。メディアが変な動きしたら叩き潰すし、素性や本名を嗅ぎつけるようなマネも、それを公開するようなマネも、絶対にさせねェ」

「社長……」

 できることならば、この依頼を引き受けたい。この仕事を、やり遂げたい。

 自分は、この国が好きだから——。

 そう望んでいるユリアの本心を知ったうえでの、ヴォルターの発言だった。……若干物騒な単語が含まれていたような気がするが、それは聞き流すこととする。

 表舞台に立って五年。歌を歌い始めて十三年。歌うことの素晴らしさを、が教えてくれたあのときから十一年。

 今、が生きていたら、自分になんと言うだろうか。


 ——自分の気持ちに素直にならなきゃだめだよ。自分のためだけじゃない。大切な人たちのために。


 きっと、そう言って、優しく背中を押してくれるだろう。

「やります。……やらせてください」

 ユリアは、ヴォルターの顔を真っ直ぐに見据えると、はっきりとした口調でこう申し出た。迷いも憂いも偽りもない。あるのは、大切なもののために歌いたいという、至極純粋な意欲のみ。

「おーおー。さすがはウチのお嬢。男前だな」

 ユリアの返事に、ヴォルターは口角を吊り上げた。にやりと笑った彼の目が、炯々けいけいと光る。

 こうして、建国二千年祭という、記念すべき大舞台への出演が決まった。

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